第三回長池講義 柄谷講義要綱
2009/3/28
柄谷行人

第三回長池講義 要綱


 未開社会には、贈与の義務あるいは互酬的な諸制度がある。それは共同体の形成と維持を目的とするものであることはすでに示した。しかし、それが、なぜいかにして共同体の「至上命令」として出てくるのか。この疑問に正面から挑んだのは、フロイトだけである(『トーテムとタブー』(1912年))。私の考えでは、フロイトが考えたのはトーテミズムの起源というよりもむしろ、未開社会における「兄弟同盟」、つまり、「兄弟同盟のすべての構成員に平等の権利を認め、彼らのあいだにおける暴力的な競争への傾向を阻止する掟」がいかにして形成されたのか、ということである。


 フロイトはその原因を息子たちによる「原父殺し」という出来事に見いだそうとした。むろん、これはエディプス・コンプレクスという精神分析の概念を人類史に適用するものである。しかし、彼は当時の学者の主要な意見を参照し、特に、ダーウィン、アトキンス、ロバートソン・スミスらの理論を借用している。それらがどのようなものかを、フロイト自身の言葉で示そう。

 ダーウィンからは、人類が原初、小さな群族を作って生活していて、その群族のそれぞれが比較的年齢の高い男性原人の暴力的支配下にあり、彼はすべての女を独占し、若い男性原人たちを彼の息子たちも含めて鎮圧し、懲罰を加え、あるいは殺害して、排除してしまった、との仮説を借用した。アトキンソンからは、以上のような記述に続くかたちで、この父権制が、父に抗して団結し、父を圧倒し、これを殺害して皆で喰い尽くしてしまった息子たちの謀叛によって終焉に至った、との仮説を借用した。そして、さらに私は、ロバートソン・スミスのトーテム理論に従って、父殺害ののち、父のものであった群族がトーテミズム的兄弟同盟のものになったと考えた。
 勝ち誇った兄弟たちは、実のところ女たちが欲しくて父を打ち殺したのではあるが、互いに平和に生活するために女たちに手を出すのを断念し、族外婚の掟を自分たちに課した。父の権力は打ち砕かれ、家族は母権に沿って組織化された。しかし、父に対する息子たちの両価的な感情の構えは、その後のさらなる発展の全経過に力を及ぼし続けた。父の代わりに特定の動物がトーテムとして据え置かれた。この動物は父祖であり、守護霊であるとされ、傷つけたり殺したりしてはならぬものとされたが、しかし年に一度、男性原人たちの共同体構成員全員が饗宴を開くために集まり、ふだんは崇拝されていたトーテム動物は饗宴のなかでずたずたに引き裂かれ、彼ら全員によって喰い尽くされた。この饗宴への参加を拒むことは、誰であっても許されなかった。これは父殺害の厳粛な反復だったのであり、この反復とともに社会秩序も道徳律も宗教も生まれたのである。(『モーゼという男と一神教』p165、「フロイト全集」22巻、岩波書店)

 
 今日の人類学者はこのような理論を斥けている。古代に「原父」のようなものは存在しない。実際、フロイトがいうような原父はゴリラ社会の雄に似たものというより、むしろ、専制的な王権国家が成立したのちの王や家父長の姿を、氏族社会以前に投射したものだというべきである。だが、そのようにいうことで、フロイトがいう「原父殺し」の意義が消え去ることはない。

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 くりかえすと、フロイトは、氏族社会の「兄弟同盟」システムがなぜいかにして維持されているのかを問うたのである。私の考えでは、それは、氏族社会が国家に転化しないのはなぜかを問うことにほかならない。理由は、国家=専制的な父の生成をたえず阻止するシステムがあるからだ。いいかえれば、氏族社会が「原父殺し」をたえず反復しているからだ。それは、トーテムにかぎらず、さまざまな互酬性の実践において反復されている。国家の生成を妨げるかぎりで、戦争もその一つである。つまり、「原父殺し」は経験的に存在しないにもかかわらず、互酬性によって作られる構造を支えているのである。それは事後的に遡及的に見いだされる原因である。ゆえに、「原父殺し」という考えは、太古にそのような原父はいないからといって斥けられるものではない。


 私の考えでは、独占的・専制的であったのは、原父ではなく、共同体所有そのものである。具体的にいうと、漂泊的小バンドでは、すべての生産物が平等に再分配された。定住ないし準定住の結果、バンドの間で恒常的に交通する事態が生じたとき、そのような共同体所有は部分的に否定されなければならなくなる。共同体所有を断念して他の共同体に贈与するのである。これはフロイトがいう「原父殺し」である。しかし、贈与されたものは、他者に対する「力」をもつ。それが他者の敵意を抑え込む。こうして、贈与の互酬によって、環節的・成層的な共同体が形成されるようになる。フロイトがいう「兄弟同盟」は、そのようなものである。
 氏族社会に存する「平等主義」は強力である。それは富や権力の偏在や格差を許さない。それは強迫的なものである。では、なぜそうなのか。これは、各人の嫉妬などから説明することはできないし、復古主義的な願望から説明することもできない。フロイトは、平等主義のこの強迫性を、「抑圧されたものの回帰」から説明した。つまり、一度抑圧され忘却されたものが回帰してくるとき、それはたんなる想起ではなく、強迫的なものとなるのだ。


 われわれは「抑圧されたものの回帰」の例を、氏族社会よりもむしろ、氏族社会が国家と貨幣経済によって完全に解体され忘却された後に見出すことができる。それは普遍宗教である。いうまでもなく、それについても、フロイトは『モーゼと一神教』で論じている。フロイトの仮説の中で重要なのは、モーゼに率いられてエジプトを脱出し砂漠を放浪した人々が緑豊かなカナンに入る手前で、モーゼを殺したというものである。モーゼが砂漠にとどまることを命じたからだ。だが、殺されたモーゼは、カナンの文明の発展の中で、預言者を通して「モーゼの神」として戻ってくる、とフロイトは考えた。いうまでもなく、これは『トーテムとタブー』で書かれた「原父殺し」の再現である。しかし、実際には、フロイトは、むしろ普遍宗教の問題から、原始時代の「原父殺し」に遡行したのである。


 フロイトがいうことは、ユダヤ教やキリスト教に限定されるものではない。普遍宗教はそれぞれ各地の世界帝国の下で、「抑圧されたものの回帰」として出現したのである。


 交換様式という観点からいえば、普遍宗教は交換様式BとCが支配的である世界帝国の下で、それによって抑圧された交換様式Aが高次の次元で回帰したもの、すなわち、交換様式Dである。それは現実には存在しないものである。とはいえ、人々の恣意的な願望や空想として出てくるのではない。その逆に、人を強いる「力」、倫理的な至上命令として出てくるのだ。

第四回長池講義 苅部講義レジュメ
2009/3/28
苅部 直(かるべ・ただし)

「開国」と結社――丸山眞男から吉野作造へ

(I) 「鎖国」と「開国」

 丸山眞男「開国」(1959年1月、『講座現代倫理11:転換期の倫理思想(日本)』
          筑摩書房。『忠誠と反逆』ちくま学芸文庫に再録)
   唐木順三「鎖国」、和辻哲郎『鎖国』(1950)との呼応
   「閉じた社会」から「開いた社会」へ / 「国際社会」への強制的編入
   三度のチャンス=戦国時代・幕末維新・「敗戦」後
    →現代的な問題と意味とを自由にくみとる
   視圏の拡大、閉じた思考の打破→他者と己れ、抽象的な社会への帰属
   民間メディアの発達、「道理」が一般的抽象的理性に、自由討議・自主的集団
    but、ナショナルな「集団転向」への傾き、政治団体がモデルになってしまう

 「近代日本の思想と文学」(1959年8月、『岩波講座 日本文学史』15巻。
                『日本の思想』岩波新書に再録)
   cf. 宮村治雄『丸山眞男『日本の思想』精読』(岩波現代文庫)
   「開かれた」科学観ー他者意識・市民意識との連関
   モデレートな懐疑精神(二葉亭・漱石・鴎外)
   既知の法則の例外現象→構想力、仮説、trial and error、他者との経験の積み重ね
     ↓
   「『である』ことと『する』こと」(1959年1月発表、『日本の思想』に再録)
     制度の自己目的化を問う、プロセスとしての民主主義
     自発的な集団形成、会議と討論

 1962年4月、米国アジア学会報告
 →「個人析出のさまざまなパターンーー近代日本をケースとして」(1965年英文発表)
    自立化・民主化・私化・原子化

 1991年11月「秋陽会記」(『丸山眞男話文集』第4巻、みすず書房)
  湾岸戦争、「国連強化」論批判
  “主権国家の寄せ集めであるかぎり、国連は永久にダメなんですよ。”
  主権概念との訣別、初期ハロルド・ラスキの「多元的国家論」(political prulalism)
  「多元的な世界構成の秩序単位」:EC・国家・アムネスティ・宗教団体・大学・
                 実業団体 →国連改革へ
  憲法第9条の先駆的意味

<国内秩序ー国際秩序の枠を超えた、重層化・多元化の運動としてのデモクラシーへ>
(II) 吉野作造とフリーメイソンリー
                     *『思想』2009年4月号掲載論文
 丸山「開国」論の一源流としての、吉野作造:朱子学の「理」と国際法・自然法概念
  「我が国近代史における政治意識の発生」(1927)
   「公道」観念(国際法受容)+議会主義の発展+天賦人権論→国民の政治的自覚
   儒学の「道」と結びつけ、国際法を形而上学的実体と誤解
    →but、人々が「新理想」を知り、視野を普遍性へ開いていく結果に
  『露国帰還の漂流民幸太夫』(文化生活研究会、1924)
   「排外思想」「維新前後の国際協調主義者」
 1921年夏、「日本開国史の研究を思い立ち資料の蒐集に着手す」(翌年1月の日記)

 同時代のユダヤ・フリーメイソンリー陰謀説に対する批判
  「マツソン秘密結社なるものについて」(『中央公論』1920.1)
 「所謂世界的秘密結社の正体」(『中央公論』1921.6)
  「賢者ナータン」「フリー・メーソンリーの話(全4回)」(『文化生活』1921〜22)

 ロシア革命・内戦→『シオン賢者の議定書』の世界的普及
  シベリア出兵、パンフ『過激思想の由来』、四王天延孝、酒井勝軍、樋口艶之助
  立憲主義・デモクラシー・平和主義への警戒

 吉野とフリーメイソンリーの出会い(1911年、ハイデルベルク)
  「自由平等並びに四海同胞の人道主義の基礎の上に立つて個人的道徳修養を専らとす
   る団体」「完全なる人類和親を主張するもの」
  「僕自身にした所が縁故が無いから入らないものの、出来るなら是非之に入りたいと
   考へて居る位だ」
  菅村道太郎『フリー・メーソンリーの研究(政治研究・第2冊)』(1920)

  *フリーメイソンリーと近代市民社会
    ラインハルト・コゼレック『批判と危機』(原著1959年、未来社)
    シュテファン=ルートヴィヒ・ホフマン『市民結社と民主主義』
     (Geselligkeit und Demokratie、原著2003年、岩波書店)

 20世紀初頭の早期グローバリゼーション:交通・通信の発達、都市化、大衆文化
  第一次世界大戦・国際連盟・国際共産主義
 →吉野作造の秩序観の変化:「国家精神」から、国家権力の相対化、多元主義への接近
   「国家生活の一新」「政治学の革新」(『中央公論』1920. 1. )
   「アナーキズムに対する新解釈」(1920)
   「現代通有の誤れる国家観を正す」(1921)

<個人・国家・国際社会の三層分立の相対化、グローバルな空間での結社の交錯へ>



第四回長池講義 高澤講義レジュメ
2009/3/28
高澤秀次

日本芸能史(2)『太平記』の時代

★北条政権末期、後醍醐天皇の治世から、足利尊氏の死を挟み、足利義満が政務を嗣ぎ(細川頼之が管領に就任)戦乱の時代がいったん終息するまでの50年間(応仁の乱以前)
中世の真ん中に位置するこの南北朝時代は、「日本の歴史を二分し、古代と近世の境目ともなる変革期であった」(林屋辰三郎『内乱のなかの貴族』)
『太平記』の時代に重なる南北朝時代はまた、東国武士団の西国進出を契機に、日本史上空前の東西交通(戦乱を通じた)が活発化した時代であり、「日本史上最初のイデオロギー時代」(司馬遼太郎)でもあった。

後醍醐の「親政」と南朝のイデオローグ北畠親房に与えた「宋学」の影響
「宋代の学問世界は、訓古をすてきったわけではないにせよ、中国の思想史上、最初に出現する観念論哲学の流行期である。朱子学の成立にいたってそれが大きく完成し、やがて宋が北方の異民族国家である金に圧迫される(南宋への版図縮小)におよんでこれがイデオロギーになってゆく」(司馬「太平記とその影響」)……尊皇攘夷論の理論モデル
それが北朝に対し劣勢に立たされた南朝の正統論の根拠となる。
南北両朝のイデオロギー対立:「当時は宋学が輸入されて大覚寺統の人々の関心を惹き、尊治親王(後醍醐天皇)などもその中心にあったが、自明院統では花園天皇も含めて経書を古注をもって解釈されたので、理性の学(理学)ともいわれた宋学とは相容れないところがあった」(林屋辰三郎『内乱のなかの貴族』)
cf.この花園天皇は後醍醐に譲位を迫られた天皇で、「北朝思想」の結晶ともいうべき「誡太子書」(「太子を誡める書」、山本七平はこの書を北畠親房の『神皇正統記』に対して、北朝の「正統記」と呼ぶ)を著している。これは花園院が後醍醐の皇太子・量仁親王(北朝第一代・光厳天皇)に自重を促した書で、朝廷が武力で政権を保持するような後醍醐的「親政」を暗に批判、宋学に対して「詩書礼楽」「経書の精神」による去私の治世を諭す。
山本七平は、足利尊氏が擁立したこの光厳天皇を北朝すなわち「後期天皇制」の祖とする。

語り物としての『太平記』
『平家物語』から『太平記』へ……特定の英雄像を描く『平家物語』と、「群像形成の語り物」(角川源義)としての『太平記』
盲目の語りから、「目明き」の語りへの過渡期(柳田國男)
兵藤裕己「婆紗羅と悪党―小島法師をめぐって」(「國文學」第36巻2号)
随所にある本文への注記:「引き」「乱」(対句仕立ての拍節的旋律)「二重」(音域の高低を指示した詠唱的な旋律)「三重」「四重」などの曲節、注記なしの部分が地語り
「談義」(半僧半俗のヒジリの行う話芸・語り芸)/物語の席で「読」まれた『太平記』
「物語僧」(禅宗寺に寄宿した遍歴の禅僧)の太平記講釈(ヨミ)
「髪をそらずして烏帽子をき、座禅の床を忘れて南北のちまたに佐々良すり……東西の路に狂言す」(『天狗草子』)
『太平記』の複数の作者の一人「小島法師」も、「凡そ卑賤の器たりといへども、名匠の聞こえあり」と言われた物語僧

太平記の楠木正成像……「下層の宗教民・芸能民の伝承的関与をうかがわせる」
正成合戦を談義/物語する一群の徒が存在した。  cf.司馬遼太郎「太平記とその影響」
正成の兵法伝承……いわゆる忍法・忍術が修験山伏の特異な修行形態から派生したことは周知、戦国末期に活躍した甲賀衆・伊賀者はともに正成の血脈を主張。彼らの出自が下層の宗教民、毛坊主の類いにあったとすれば(鈴鹿山地一帯を縄張りとした山伏・山立の一類か)、その伝承する兵法が「下賤の職」と卑賤視されたのも当然

太平記を講義/物語する異形の「あぶれ者」たちが、自らの境遇を楠氏や名和氏・児島氏の末路にかさね合わせた。そうした数多くの有名・無名の語り手たちの一人に、老残の高徳入道=児島高徳(南朝方の備前の武将)をカタル法師形の「卑賤の器」も存在しただろう。語り手と語られる作中人物とがだぶってくるのは、日本の語り芸の伝統。幕府体制への執拗な反抗を企てる児島高徳(あるいは楠・名和の一族)と、それを仕方・声色をまじえてカタル者たちとは、語り(騙り)芸の世界を媒介にして系譜的、系図的にも繋がる。

参照:兵藤『太平記〈よみ〉の可能性―歴史という物語』(講談社選書メチエ)
   新田一郎『太平記の時代』(日本の歴史11,講談社)
   『中村直勝著作集第三巻――南北朝の研究』(淡交社)
   森茂暁『南朝全史―大覚寺統から後南朝へ』(講談社選書メチエ)
   山本七平『日本の歴史(上・下)』(B選書、ビジネス社)

★天皇制の分岐点:北条高時が後醍醐に対抗して担いだ光厳天皇(北朝第一代)、足利尊氏が擁立したその弟・光明天皇(北朝第二代)は武家(政権)のための天皇、古代的な王権(後醍醐はその復興企てる)とは断絶。北朝=「後期天皇制」cf.新井白石『読史余論』

南朝の吉野への逃走(後南朝の延命)と「悪党」の活躍
海津一朗『神風と悪党の世紀』(講談社現代新書)によると、南北朝時代の特徴として、蒙古襲来を機に「神国観念」の高まりを見せるなか、地域民衆の既得権が著しく侵害され、「悪党」の語に象徴されるような民衆への差別と統制強まる。南朝のシンボル後醍醐を支えた河内の土豪・楠正成はそうした「悪党」の典型。『太平記』のような物語のヒーローにはなり得ても、『神皇正統記』のような南朝正統論の「正史」では無視。
楠ら「悪党」は、幕府からは冷遇されていたものの、支配階級に属した土豪で、鎌倉末期からは寺社に敵対する「国土の怨敵」といった意味から、国家に反逆する倒幕勢力そのものを表すまでになった。    cf.中上健次の野外劇『かなかぬち』楠正成=韓鍛冶

林屋辰三郎は、当時の「悪党蜂起」について、徴税力を失った荘園領主にかわって年貢徴収を請け負った地頭領主(在庁官人)の搾取に対し、農民の側から年貢を自主的に請け負う地下請けが台頭、こうした農民の団結、搾取に対する抵抗が、地頭や幕府にとって「悪党」的振る舞いとみなされるようになったとする。
「彼らは公家政権の再現を期待したのではなく、むしろ公家も武家も否定した真に彼らのための彼らによる政権を希望したであろう。しかしそれがもとよりかなえられぬ性質のものであってみれば、公家側の反幕府戦線のなかで行動するようになってくるであろう」(『南北朝』)
「南北朝時代の戦乱を通じて、常に地方の「郷民」がその背後に存することを、私は注意したい、大和天河郷・十津川郷・川上郷の郷民が賀名生(あのう)皇居を警衛した事実、紀伊花園郷の郷民が阿瀬河城の行在(あんざい)に馳参じた事実等を想起すれば、おのずからこのことが諒解せられるであろう。この郷民は南北朝時代のころから新しい自治組織をもって発展してきたもので、単に地方郷内における個々の住民ではなく、「郷民」が一箇の有機的団結をなし、「郷民蜂起」などと呼ばれるように郷全体が一丸となって、郷民の共同利益とそれを冒すものに対して積極的な行動を示したものに他ならぬ。彼ら郷民は各自の郷土が戦禍を蒙ることを極度に怖れ、多くは在地において自存自衛の道を講じたのである」(『内乱のなかの貴族』)
「南北朝半世紀の歴史の進歩は、社会の全面に、たとえ悪党といわれ下剋上といわれようとも、郷村をよりどころとして立ち上がる民衆の、根強いうごきを記録していたからである。それは守護領国支配の進展に対して、郷村平和を守る郷民たちの、生命をかけた抵抗に他ならなかった」(同)
日本的マルチチュード(雑民)としての「悪党」の反制度性と天皇制への回収
「蜂起」と「一揆」……後の山城「国一揆」などの共和制的アソシエーション(下剋上の民衆的形態としての)と共同体。  cf「.一向一揆」と雑賀鉄砲衆の連合VS.織田信長
参照:石母田正『中世的世界の形成』(「黒田悪党」、岩波文庫)
   網野善彦『異形の王権』(平凡社)
       『日本中世の非農業民と天皇』(岩波書店)

★南朝(吉野朝)は何故、延命できたのか
角川源義『語り物文芸の発生』
「吉野朝の政権が、とにかく長きにわたって保持できた原因の一つに、吉野山の修験者はもちろんのこと、熊野修験者の協力があったことを挙げねばならぬ。しかし、最も大きな原因は熊野水軍(その背後に伊勢・熊野の通商・造船を司る北畠氏の勢力)の全面的な協力が経済的なバックアップをなしていることを考えねば、その謎を解くことができない」
『太平記』は尊皇派の修験者の尊皇精神をもとにして成立
「小島法師は特定な個人の名というよりも、備前児島の新熊野権現によっていた山伏の一人と考えられる」
語り物を語っていた盲目法師と、児島の新熊野権現を拠りどころとする修験者との交流
『太平記』の成立/山伏と時衆(宗)……熊野信仰と時衆(宗)教団の深い関係
山伏と遊行僧は、霊山聖地をめぐりつつ日本のくまぐまを廻国している点で共通
時衆の念仏聖が従軍僧のように戦さの場にあった例、念仏聖の悲劇の伝承があまたの挿話とともに『太平記』を成立させているのは、この伝承の管理者に時衆教団があったから。

因みに足利尊氏によって天竜寺が造営され、後醍醐天皇の7周忌に当たってその供養も行われた際に(尊氏の天皇に対する報恩謝徳を表す)、開山の夢窓国師疎石が上皇・天皇の臨幸を仰いだ事に山門(延暦寺)側が反発。この頃から著しい進出を示した禅宗、念仏宗の盛運に対して北朝系の公家・洞院公賢(というんきんかた)は、「禅念両宗、洛中に充満し、異類異形、路頭を徘徊す」と『園太暦』に反感を記している。(林屋辰三郎『内乱のなかの貴族』)

南朝側のネットワーク:交通・流通・狩猟などに携わる「散所の民」(非定住・非農業民)
散所法師……時衆の徒と庭を掘り起こしたり、芸能に携わることでも共通
亡き人をとぶらって漂白するという芸能のスタイル

散所の起源:古代律令制国家の崩壊過程、「賤民制」の解体とそれにともなう新しい荘園領主に対する隷属の基本形態が、「散所」の発生と密接にかかわる。賤民の身分的差別を職業的差別のみならず、地域的差別に転化させることにもなった。「その意味で散所の発生は、部落という特殊地域を、はじめて地域的に表現したものとして、部落史の序章ともいうべき位置を占めている」(林屋辰三郎『古代国家の解体』)……アジール論の陥穽

摂津・河内・泉の「交通路線」を支配した楠氏の「悪党」性は、換言すれば「散所長者的性格」(林屋)で、それが戦功にもかかわらず公家に重視されなかった真の理由。ただし、南朝の大きな地盤が「散所的所領の商業的発展」にあったことは否定できない。荘園に足がかりを失った公家勢力が、新しい商業的活動、交通形態と結びつく。
鎌倉いらいの貨幣経済の浸透:新興階級としての商工業者と荘園経済に支えられた貴族

武家方でも足利義満の後見・細川頼之(管領)が、幕府の基礎を固めるために、土倉・酒屋から銭を徴収、土倉という高利貸資本を支柱として行く基本形態を定めた。南北朝の合一なった翌年(一三九三年)の酒屋土倉に関するこの施策は、公家勢力の基礎となっていた「座」の商業的発展と深く結びあった高利貸業者を現実的に把握するものであり、「公家の経済的地盤を、実質的に無力ならしめたことを物語る」(林屋、『内乱のなかの貴族』)
なお、義満は一方で吉野を根拠地とする南朝の逃走経路(熊野―伊勢)を寸断するめに、熊野にも懐柔の手を伸ばし、熊野水軍の掌握を図っている。「両朝合一直前に、義満の手で奉納された熊野速玉大社の古神宝類はその事情を如実に表している」(今谷明「後南朝―室町幕府の政治と後醍醐流の抵抗」、『歴史読本』第52巻8号)

(当日会場で配布したレジュメに加筆しました)

第四回 長池講義 開催情報
 会   場長池公園自然館 東京都八王子市(長池公園自然館は会場を提供しているだけなので、講演の内容などについて問い合わせをしても答えられません。ルートの確認なども含め、問い合わせしないようにお願いします。)
長池公園自然館(ネイチャーセンター)への行き方>>
 日   時2009年3月28日土曜日 13:00〜17:00
 講   師柄谷行人、苅部直、高澤秀次、いとうせいこう
 テ ー マ国家論
 定   員45名
 入 場 料無料
 お申し込み2週間前になりましたので、申し込みをしめきりました。(3月15日)  抽選の結果はメールにて通知させていただきました。(3月21日)

※抽選で選ばれ参加することになってから都合が悪くなった方は、参加できない旨、必ず事前にメールでご通知ください。

第三回長池講義 高澤講義レジュメ
2008/11/1
高澤秀次

「歌・物語をめぐる「交通」と「信仰」―東国・東北文学の発生」

(I)歌謡の起源としての歌垣――『万葉集』東歌・防人歌と古代人の交通
佐佐木幸綱『東歌』
5世紀の段階から東国は大和朝廷に服従(最も管理しやすい地盤)
防人を、わざわざ東国で徴発……「東歌」と「防人歌」は地続き
東歌……王朝の「みやび」とは無縁な辺境・東国文化の象徴
7世紀後半以降、東国には、中国、朝鮮からの渡来人が相当数居住
畿内の過剰人口とフロンティアとしての東国・関東(司馬遼太郎)
高麗錦……東国各地に送り込まれた彼らが、本国から持って来た錦、あるいは彼らがその技術をもってして名産の錦を日本で織ったりしたのか。
から衣……東国で歌の素材となり、歌語として都へ波紋を広げる
高麗人たちは、日本風の服を着ることを拒否し、高麗風の「から衣」で通した。
高麗笛……「高麗神社の祭の笛」(坂口安吾)……「高麗」は高麗ではなく高句麗
『続日本紀』に「駿河、甲斐、相模、上総、下総、常陸、下野七国の高麗人千七百九十九人を武蔵国に遷し、始めて高麗郡を置く」とある。七カ国と武蔵国は「東歌」の中心部

「東歌」の民謡性と非民謡性(歌の中央集権化に対する「抵抗」の姿勢)
「防人歌」と家族の歌の多産……体制の壁と家族という砦(cf.秩序を構成する家)
「公」と「私」
歌垣という場……歌の実用性。広く流布してゆく歌と民謡の胎動
原型的な「われ」……あらゆるものを相対化しうる「われ」。共有しうる「われ」
個別的に個の内へ内へとこもってゆく「われ」は共有不可能。能動的、攻撃的に、外へ出てゆく「われ」でなければならない。
民謡的だが民謡そのものではない、特定の恋人へ向けた歌の工夫……歌垣での歌の呼吸を踏まえ、特定の相手に向けて実効性を持つ歌(集団的掛け合いから個の呼びかけへ)

歌垣の起源……農耕予祝儀礼である「国見」と起源を同じくする民間行事(土橋寛)
「生殖」と「生産」との重ね合わせ
「山行き」「山遊び」「花見」などの「春山入り」の行事がその初源
(1)花見ないし国見(2)青葉摘み、草刈り、柴刈り(3)共同飲食(4)歌舞(5)性的解放(6)通婚圏の拡大要請
個的な歌、新作、アドリブ表現は、一般性に即した歌の後にくる。歌垣の歌の重層性

(II)折口信夫・柳田國男をケンブリッジ学派の日本版とする丸谷才一説(「折口学的日本文学史の成立」)
ケンブリッジ・リチュアリスト:文学の宗教起源説に立つ古典学派(文化人類学の元祖)
ritual=儀式、祭祀、お祭り……柳田『遠野物語』の地理と伝説の融合はその影響か
J・G・フレーザー(『金枝篇』The Golden Bough折口の抄訳がある)
折口:『日本文学の発生』(「たヾ今、文学の信仰起源説を最、頑なに把つて居るのは、恐らくは私であらう」)……柳田経由のケンブリッジ・リチュアリストの方法
折口は文学を自然科学的な探求の対象とした「自然主義」的文学観に対抗した
ジェイン・ハリソン:『古代の芸術と祭祀』『ギリシアの神々』……プラトンの「芸術は模倣=ミメーシス」説に反対、模倣ではなく祭祀、お祭りで古代人の情緒を再生、再演

(III)柳田國男:「東北文学の研究」文字以前の文学と文字以外の文学を問題化
物語の流布に携わった座頭(「目がないから本などの入り用は絶対になかった」)
「座頭の交通と割拠」/「盲目の力」

故人がわれわれの夢に見えるごとく、また物語の中に現われて泣き嘆いたことは、浄瑠璃のような近世の産物にも、なお多くの名残を留めている。文芸が宗教の領分から全然独立して後も歌謡はとうてい平静たる叙述のみをもって、喚び戻された古人の生活を客観することを得なかった。情の高潮に達した際には、主人公は必ず歌を詠むことになっている。これを聞く者の感動は必ずしもその詞の巧拙によらず、むしろそのみずから語るの声によって、現前に相対するの思いを抱くからであった。イタコまたはモリコと称する東北の巫女たちは、教えられずして早くよりこの法則あることを知っていた。ゆえに一方には祈祷の辞、もしくは遠ざからんとする霊魂を招く詞を唱えつつ、他の一方には一見これとは関係なき歌物語をもって、神を人界に悠遊せしめ、もしくは人をして神の国を愛せしむるの手段に供しているのである。
これに比べるとボサマすなわち座頭の方は、同じ盲目でも早くから信仰を離れて、物語に専らなる者が多くなったが、それでもみずから一人称を用いて、私が見たこう言ったと、語っていた時代は永かったのであろう。
cf. 『妹の力』(「玉依姫考」)……魂の憑る姫、身に神霊を宿す女=巫女

弁慶が家老挌に引き上げられ、『勧進帳』の主人公にまでなったのは、まったく『義経記』以後の変化であった。
語り始めた時の動機がいろいろだから、物語の中心がつぎつぎに移ったので、『義経記』なども義経を主人公にしたのはかえって前半の方に限られ、吉野山では佐藤忠信、鎌倉では静御前、北国落ちでは武蔵坊……というように、シテ役は一貫してはいなかった。
各部分の作者産地はそれぞれに別であった……「いくつかの物語のかたまり」
奥州系かと考える『義経記』の特色は、ことに「北国下り」以下によく現れている。
その第一は地理の精確といういこと。第二の特色は山伏の詳しいこと。
弁慶は熊野に生まれたというのみで、もと法師であって修験道には携わらなかった。
山伏もしくはこれに接近した者が、筋を運びこの物語を語る必然。奥州辺土の生活に修験道の交渉が多く、誰しも若干の興味を寄せていた時代相を、暗示するもの。
「熊野と羽黒との交通」……伝道の痕跡と『義経記』。その後篇は正しく熊野および熊野人のための宣伝であった。熊野の神人の家系・鈴木氏の東北、奥州平泉における地位

(IV)角川源義:『悲劇文学の発生』『語り物文芸の発生』
悲劇の「説話」(ものがたり)の管理者(語り部)/運搬者(海部の民)
その管理者は勝者ではなく歴史的な敗者……敗者が自身のそして祖先の悲劇を語る
それを聞く者の「笑い」の効用……「笑いの文学」と「悲劇の文学」は踵を接していた。
『義経記』:源義経と、熊野別当の子という形で、熊野側の代弁者となっている弁慶、二人の流離譚。義経よりもワキ役、弁慶の方が余計に活躍する。『平家物語』では、これという為事(しごと)をしていない弁慶が、『義経記』になると俄然活躍するのは、この『義経記』を管理していたものが、熊野信仰を支持した、これら語りの徒であったことがわかる。偽山伏に身をやつして関所を通過。様々な難題を解決しつつ平泉に到着(「北国落」)
熊野の語部による管理:熊野の語りの徒が、信仰の多い東国・奥州の地に出かけて行っては彼らの管理する語り物を語っていた。『義経記』が東北文学として栄え、『曾我物語』が箱根・伊豆山を中心として、関東で固定した深い理由。


第三回長池講義 山下講義レジュメ
2008/11/1
山下範久

「ポランニー的不安とメタ普遍主義」

1. ポランニー的不安

・「大転換」の条件

「労働、土地、貨幣は産業の基本的な要因である。これらの要因もまた市場に組み込まれなければならない。…ところが、労働、土地、貨幣が本来商品でないことは明白である。…第一に、労働は、生活それ自体に伴う人間活動の別名であり、その性質上、販売のために生産されるものではなく、まったく別の理由かのために作りだされるものである。…つぎに土地は自然の別名でしかなく、人間によって生産されるものではない。最後に現実の貨幣は購買力を示す代用物にすぎない。原則としてそれは生産されるものではなく、金融または国家財政のメカニズムを通して出てくるものなのである。…労働、土地、貨幣はいずれも販売のために生産されるのではなく、これらを商品視するのはまったく擬制なのである。」(『経済の文明史』ちくま学芸文庫版pp.38-9)

→三つの大転換体制(ファシズム、コミュニズム、ニューディール)
 ※それは本当に「大転換」だったのか?

・「大転換がおこらないかもしれない」という不安

「[この労働、土地、貨幣を商品化する自己調整市場のシステムにおいては]人間は、悪徳、倒錯、犯罪、飢餓などの形で、激しい社会的混乱の犠牲となって死滅するであろう。自然は個々の要素に還元されて、近隣や景観はダメにされ、河川は汚染され、軍事的安全は脅かされ、食糧、原料を生み出す力は破壊されるだろう。最終的には、購買力の市場管理が企業を周期的に倒産させることになるだろう。というのは、企業にとって貨幣の払底と過剰が、原始社会にとっての洪水と旱魃と同じくらいの災難になるであろうからである。」(『経済の文明史』ちくま学芸文庫版p.40)

「文化的制度という保護の覆いを奪われれば、人間は社会に生身をさらす結果になり、滅びてしまうだろう。」(『経済の文明史』ちくま学芸文庫版p.40、強調山下)

→〈世界〉を定義する要素が、実は固定的な定義をもたないことを直視してしまうことから発する不安

⇒普遍性の複数性に直面する不安

2. 近世帝国の教訓

・近世=帝国の時代
 →ヨーロッパの例外ではない
  ∵帝国は〈世界〉を提示する理念によって定義されるから

・〈世界〉を提示する理念は、positiveな普遍性主張ではない
 →むしろpositiveな普遍性主張の複数性を管理する位置にある


3. ポジティヴな普遍主義とネガティヴな普遍主義

・ポランニー的不安の封じ込め→ポジティヴな普遍主義

 →単一の普遍主義の押し付けに陥る

 e.g. フクヤマ:「歴史の終わり」からコミュニタリアン的転回を経て「人間の終わり」へ

・ポランニー的不安の徹底化→ネガティヴな普遍主義

 →あらゆる形態の普遍主義の押し付けの拒否
 →論理的には可能だが…

 e.g. ジジェク:「リスク社会」から〈他者の他者〉理論を経てイデオロギー批判へ

4. メタ普遍主義

 ・ラスカサスの教訓

  (弧世般酥擇寮引きを行う絶対的な視点はない
   →普遍性は複数的
  同意のない規範に従う義務はない
   →超越性は無効
  K塾呂寮掬化には比較考量が必要である
   →暴力は理念によっては正当化されえない
  い△蕕罎訛減澆論在的に文明化の可能性をもつと推定されなければならない
   →他者を個別性に囲い込んではならない(相対主義の逃避の否定)

 ・われわれのポランニー的不安を特権化することの暴力

 ・ポランニー的不安が人類史的常態であることと普遍性の存在を肯定することとは矛盾
しない

 ・ホッブズ的自然状態(規範そのものがない状態)から単一の普遍的秩序を立ち上げる
という理路(「国内類推」)の拒否
  →規範の内容の明示的な定義については、潜在的につねに複数の主張が相争っている
が、その前提には規範の存在そのものに対する推定が働いている

 ・重要な区別は、普遍性の存在自体を肯定することと、特定の明示的な内容をもつ普遍
性を押し付けることとの区別

 ・自己と世界とを直接対峙させる短絡(世界の終わりに直面しているという特権的歴史
意識)からの切断

 ⇒〈帝国〉を歴史の清算の場にしないこと


以上

■ 本報告は、11月28日発売予定の拙著『現代帝国論:人類史の中のグローバリゼーション』(NHKブックス)で論じた内容をもとにしています。




第三回 長池講義 開催情報
 会   場長池公園自然館 東京都八王子市(長池公園自然館は会場を提供しているだけなので、講演の内容などについて問い合わせをしても答えられません。ルートの確認なども含め、問い合わせしないようにお願いします。)
長池公園自然館(ネイチャーセンター)への行き方>>
 日   時2008年11月1日土曜日 13:00〜17:00
 講   師柄谷行人、いとうせいこう、高澤秀次、山下範久
 テ ー マ国家論
 定   員45名
 入 場 料無料
 お申し込み定員に達しましたので、申し込みをしめきりました。(2008年10月25日)

※なお、受付確認のメールは返信いたしません。今回申し込みが多いため、すでに申し込まれた方も含め、参加される方を抽選で選ぶことにいたします。抽選の結果は10月25日頃までにメールで通知させていただきます。
また、抽選で選ばれ参加することになってから都合が悪くなった方は、参加できない旨、必ず事前にメールでご通知ください。

第二回 長池講義 講義録
2008/6/21
柄谷行人

「互酬の力」

 一般に、先史時代に関しては、狩猟採集、漁労、農耕、牧畜、あるいは、石器・青銅器・鉄器といった発展段階から語られる。これは、歴史を、人間と自然の関係という観点から見るものである。これはまちがいではない。事実、人間と人間の関係は、人間と自然の関係を基礎にしているからだ。だが、人間と自然の関係は、人間と人間の関係を通してしか、つまり、一定の社会的な関係を通してしかありえない。前者が後者を規定するだけでなく、後者も前者を規定するのである。

 未開社会における「人間と人間の関係」のあり方は、人間と自然の関係、あるいは生産力という観点からは説明できない。生産力が低いから、こうした社会が形成されるのではない。その逆である。このような「人間と人間の関係」のあり方が、生産力を高める動機を与えないのだ。ゆえに、われわれは「人間と自然の関係」に先立って、「人間と人間の関係」を考察しなければならない。

 その場合、二つの視点が可能である。一つは、マルクスがそうしたように、「生産様式」からみることである。それは、具体的には、誰が生産手段を所有するかという観点である。また、生産手段とは、事実上、土地のことである。そこで、マルクスは、原始社会の特性を共同体所有に見いだし、そこから、私的所有、階級差と対立、さらに、国家の形成という道筋を想定したのである。一方、モースは、原始社会の特性を互酬交換に見いだした。つまり、彼は互酬を、外婚制や首長制、さらに供犠など、社会的・政治的・宗教的とされる次元すべてにおいて貫徹される原理として見いだしたのである。

 一見すると、この二つは対立するか、または、まったく結びつかないようにみえる。しかし、実は深い所でつながっている。私がいう「交換様式」の視点は、この二つを結びつけるものである。

 共同体的所有というと、個人の所有がまったくないかのように誤解される。しかし、たとえば、武器や道具は個人の所有物である。共同体所有となるのは、特に、生産手段としての土地(テリトリー)である。その場合でも、諸個人や所帯は使用権において、そして、それによって生じる財において差がある。しかし、それは階級的な格差にも、国家の形成にもいたらなかった。

 実際、未開社会は、狩猟採集のみの社会から、狩猟採集のほかに漁業、あるいは簡単な農耕・牧畜を行う社会にいたるまで多様である。また、政治的な形態では、単純なバンド社会から、首長制・王制の社会に及んでいる。商品交換や富の不平等、さらに奴隷が存在するところもある。にもかかわらず、それらは国家になることはなく、階級社会になることもない。なぜか。マルクスなら、「共同体的所有」が存在するからだ、と答えるだろう。一方、モースは互酬原理があるからだと答えるだろう。つまり、互酬性が富や権力の集中を妨げるからだ、と。

 しかし、実際は、これらは同じことを意味しており、且つ、相補的である。共同体所有がどのように作用するのかを見るためには、互酬交換を見なければならないし、互酬原理がなぜ作用するかを見るためには、共同体所有を見なければならないのである。

 モースは、互酬がいかにして成立するのか、つまり、なぜ贈与が、贈与された側に返礼を強要するのかを考えようとした。彼はその謎を解く鍵を、未開人(マオリ族)がハウと呼ぶ呪力に求めた。もし返礼しないならば、贈与物に付随するハウが、災禍をもたらす、と彼らは考えている。別の見方でいえば、その物らが元いた所に戻りたがっている、と。だが、このような見方は、モースがもたらした互酬の理論を受け入れた人々の間でも、批判の的となってきた。たとえば、レヴィ=ストロースは、モースの考えは未開人の思考に従うだけで終っている、と批判した。

 しかし、未開人の見方に反して互酬を科学的に説明しようとすると、近代の心理学的見方になってしまいがちである。それは、互酬を、商品交換と類似したものと見ることになる。たとえば、贈与された物がもつハウは、贈与された者がもつ心理的な債務感から説明される。その場合、負債は、贈与された物の経済的価値と似たものになる。だが、これでは商品交換と互酬の違いがわからない。

 モースによれば、互酬を支えるものとして、贈与する義務、受け取る義務、返礼する義務、という三つの義務がある。心理的な債務感という見方では、贈与する義務や受け取る義務を説明できない。一方、気前よく贈与するのは、それが社会的な威信を与えるからだ、という説明がある。だが、「贈与する義務」をそのような理由によって説明することはできない。贈与の義務がある社会では、気前よく贈与することは威信を高めるし、そうしないなら不名誉で威信を落とすことになる。つまり、贈与の義務だけが特にそうなのではない。何であれ、共同体の義務を果たすことは名誉であり、そうしないことは、不名誉である。

 いずれにしても、互酬を強いる力を、近代的な見方で説明することはできない。その意味で、われわれはモースが物に宿る力(ハウ)にこだわったことを重視しなければならない。モーリス・ゴドリエは、ハウの力を、物に対する所有権と使用権から考えた。贈与において、使用権は譲られるが、所有権は譲られない。だから、贈与物のハウが元に戻りたがるということは、贈与されたものが依然として贈与者の所有物であるということを意味するにすぎない。物の所有権が譲渡不可能だというのは、それが共同体的所有だからである。

 しかし、モース自身が、以上のことをわかっていたはずである。彼は「マナ」について論じた初期の呪術論から、呪力が社会的なものであることを強調していたからだ。また、モースに先立って、その叔父デュルケムが、所有権が社会的なものであること、そして、未開社会では、それは宗教的な形態をとってあらわれることを強調していた。デュルケムは所有権の根底に宗教的なタブーを見いだした。タブーとは、ある物を聖なるものとして、神事の領域に属するものとして斥けることである。神聖化されないかぎり、所有は成立しない。そして、神聖なるものは、事物そのものに宿る(『社会学講義』)。

 所有権が人間ではなく物に宿るということは、所有が「共同体的所有」として始まることを意味している。人々は、物が共同体の所有であることを直接に意識することはない。それを、物に精霊が宿っていると意識するのである。ゆえに、贈与された物には、共同体の所有権が精霊として付随するわけである。

 このように共同体的所有という点から見れば、贈与の義務や受け取る義務を合理的に説明することができる。第一に、贈与の義務とは、個人や所帯は、たとえ個人的に使用していても、それが本来共同体に属するものであるからには、共同体のために放出しなければならない、ということである。では、共同体の目的とは何か。狩猟採集の段階ではたえず狩猟範囲をめぐる衝突が生じるため、共同体は他の共同体との間に友好的な関係を築かなければならなかった。そして、贈与はそのために不可欠な手段であった。

 共同体の成員は、共同体の存続のために、個々人の所有を放棄しなければならない。この問題は、外婚制とインセストの禁止の問題から考えてみても明らかである。外婚制は、共同体と共同体の紐帯を作りだすために必要である。インセストが禁止されるのはそのためだ。さらに、同じ理由から、略奪婚が説明できる。レヴィ=ストロースはいう。《略奪婚は、互酬性の法則に矛盾しない。むしろ、互酬性を実行にうつすための可能な合理的方法の一つである。花嫁の誘拐は娘たちを擁する一切の集団が負っている彼女たちを譲渡する義務を劇的に表現している》(『親族の基本構造』)。すなわち、略奪婚が許されるのは、娘を略奪される側が、もともと娘を「贈与する義務」をもっているからだ。

 「贈与を受け取る義務」についていえば、贈与を受け取らないのは、他の共同体を斥けることである。それはたんに人間を斥けるだけでなく、物に宿る神あるいは呪力を斥けることになる。贈与を受け取らないのは、贈与を受け取ってお返しをしないのと同じことだ。この場合、お互いが贈与の効果を信じているのでなければ、贈与の効果はない。しかし、贈与を受け取ることを拒むことで災禍が生じると考えるのは、必ずしも迷信とはいえない。受け取りを拒んだ後に、共同体間の戦争が待ち受けているからだ。

 贈与の互酬を通して、さらに、娘の贈与による親族関係を通して、氏族はより大きな共同体(部族や部族連合体)を形成するようになる。この意味で、贈与の互酬は、共同体が他の共同体との間に、和平と交易の関係を作りだす原理なのである。だが、それによって、他の共同体への忌避や敵対性が一掃されるものではない。それは、たとえ上位の共同体が形成されても、下位の共同体の独立性が消えないということを意味する。このため、他の共同体との関係において、贈与は友好的関係を築くものであると同時に、しばしば競争的なものとなる。つまり、ポトラッチのように、相手を返済できないほどの過度の贈与によって圧伏させるものとなる。もちろん、これは相手を支配するためになされるのではない。共同体の独立性(威信)を守るためになされる。

 この意味で、血讐も互酬的reciprocalであると考えられる。たとえば、共同体の成員が他の共同体の成員によって殺された場合、報復reciprocationがなされる。報復の「義務」は贈与・返礼の「義務」と似たようなものだ。共同体の成員が殺された場合、それは共同体所有の喪失であるから、加害者の共同体に同じ喪失をこうむらせることでしか償われない。血讐にはそれに対する報復がなされ、それがとめどなく続くことになる。ポトラッチにおける贈与の応酬がどちらの共同体も壊滅させてしまうことがあるが、血讐も同様である。それが禁じられるのは、犯罪を裁く上位組織(国家)が成立するときである。逆にいうと、このことは、血讐の存在が国家の形成を妨げることを示している。血讐は上位組織に対する各共同体の独立性を回復するからである。

第二回長池講義 高澤講義レジュメ
 以下の資料(A、B)は、08年5月17・18日に静岡で開催された「有度サロン」での柄谷行人氏との対話のために用意したレジュメを一部改稿したものです。
 「歴史と反復」(『定本 柄谷行人集5』)の60年周期説は、近年120年周期説へと転回、1848年ヨーロッパ革命の1968年における反復構造など、世界資本主義の諸段階に即した対応関係が開示されつつあります。ただし、ここでは氏の60年周期説に立ち返って、日露戦争後の「明治」と「昭和」の反復構造を再整理(資料A)、加えて日本近代史のアポリア「大逆事件」をめぐる「歴史と反復」を、アジア史、世界史の文脈のなかに位置づけてみました(資料B)。

資料A 明治日本と昭和戦後の歴史的反復(60 年周期の再現前)
2008/6/17
高澤秀次

1905:日露戦争終結(ポーツマス条約) 1965:日韓条約調印(韓国進出の契機)
1906:満鉄設立(金融資本大陸進出) 1967:資本自由化 GNP 世界3 位
1907:足尾銅山、暴動罷業 1960年代後半…公害社会問題化(水俣)
1908〜11:第二次桂太郎内閣とアナキズム 1967〜70:第二次佐藤内閣と全共闘運動
1909:自由劇場起こる(新劇) 1969:アングラ演劇運動全盛
1910:
1911:
大逆事件
関税自主権の確立
 1970:
1971:
三島由紀夫自決
変動相場制に移行
大江健三郎「みずから我が涙をぬぐいたまう日」註1
1912:明治アナキズムの敗北と啄木の死 1971:全共闘運動終息と高橋和巳の死
1917:石井・ランシング協定
(中国の領土保全・門戸開放)
 1977:日中平和条約・米中国交正常化

 柄谷(「近代日本の言説空間」):西暦による時代区分と元号による時代区分の「視差」から見える、歴史の反復構造──日本的文脈の意味「昭和三〇年代」まで

※ 最初の反復構造の顕れ:1900(明治33)と1960(昭和35)

 橋川文三『昭和維新試論』(朝日選書)所収「青年層の心理的転位」によると、かつてプリンストン大学のジャンセン教授は、「近代に対する日本人の態度の変遷」(『日本のおける近代化の問題』)で、「明治日本」から区別された「帝国日本」の出現と、その移行を「下関条約とポーツマス条約の間の十年間」、とくに便宜的な目安として明治33 年=1900を画期として行われたと論じた。
 橋川は言及していないが、この「移行」に対応するのは、昭和前期(「帝国日本」の暴走と解体)から、昭和後期(「帝国」の敗北後のポスト「戦後日本」)への決定的画期点となった昭和35 年=1960。日米安保条約の改定はその象徴。

 ジャンセン教授はまた、「近代化に対する日本人の態度の変遷」に関し、1880 年代の月並陳腐な政治小説から、近代作家たちの「内観的夢想」がそれに代わったことを指摘。
前者:矢野竜渓『経国美談』・東海散史『佳人之奇遇』・末広鉄腸『雪中梅』
後者:二葉亭四迷『浮雲』から『蓬莱曲』『内部生命論』に至る北村透谷の劇詩・散文


 なお、「明治日本」から「帝国日本」への過渡期を前景化した花田清輝の戯曲に『爆裂弾記』(1962)。自由民権運動の解体期に起こった「大阪事件」1885 年(明治18)に着想を得た、壮士たちと爆裂弾をめぐる悲喜劇。事件は旧自由党左派・大井憲太郎らが、朝鮮に渡って閔妃ら保守派を一掃しようと画策、事前に検挙。「帝国日本」はこの後、朝鮮侵略を本格化、日清戦争の翌年には実際に王妃閔氏を暗殺。北村透谷はこの謀議から離脱、文学に転じて「内観的夢想」を言語化。朝鮮独立派壊滅と同年の福澤諭吉「脱亜論」。

 また、有島武郎は『或る女』で日清戦争後の精神状況について次のように印す。
「その当時は日露の関係も日米の関係も嵐の前のやうな暗い徴候を現はし出して、国人全体は一種の圧迫を感じ出してゐた。臥薪嘗胆といふやうな合ひ言葉が頻りと言論界には説かれてゐた。然しそれと同時に日清戦争を相当に遠い過去として眺め得るまでに、その戦役の重い負担から気のゆるんだ人々は、漸く調整され始めた経済状態の下で、生活の美装といふ事に傾いてゐた」

cf. 柄谷行人「近代日本の言説空間.1970 年= 昭和四十五年」
「たとえば、キリスト教に向かった北村透谷や、禅に向かった西田幾太郎をみればよい。彼らはそれぞれ政治的な闘いに敗れたあと、急速に整備されるブルジョア国家の体制にたいして、「内面」に立てこもった。つまり、「明治維新」の可能性が閉ざされたあとで、世俗的なもの一切に対立しようとしたのだ。しかも、彼らは世俗的= 自然的なものに敗れざるをえなかった。透谷は自殺し、西田幾太郎は屈辱をしのんで東京帝国大に選科生(聴講生)に入ったのである。K 註2もまたそのようなタイプであったといえる」。他に柄谷「内面の発見」(『日本近代文学の起源』)

※「昭和維新」の可能性が閉ざされた60 年安保後の、「戦後日本」への三島由紀夫(右)・江藤淳(保守)・吉本隆明(左)三者のの反逆的位相とその敗北(戦後思想と戦後文学)三島由紀夫の「戦後」への呪詛:『鏡子の家』から『英霊の声』へ

 ジャンセン:「自己完成の可能性へのオプティミズム」から、懐疑的な「内観的夢想」(introspective reverise)への転位。
 橋川はその劇的な推移の傍証として岩波茂雄の次の言葉を引く(前掲書)。
「乃公(だいこう)出でずんば蒼生を如何せん、といったような慷慨悲憤の時代のあとをうけて、人生とは何ぞや、われは何処より来りて何処へ行く、というようなことを問題とする内観的煩悶の時代」(『岩波茂雄伝』)へ。「現代人の孤独」の起源。

(註1) 1960年(安保闘争)のパロディ(1860年の四国の森での農民一揆を喚起)として、『万延元年のフットボール』(67年)を書いた大江は、この作品で「純粋天皇」とともに、大逆事件に連座して処刑された男の娘を主人公の母親として登場させている。なお、本作品については、『新潮』8月号掲載の小林敏明論文参照。08年8月8日から新宮市で開催される熊野大学夏期特別セミナーの基調講演(「大江健三郎から中上健次へ」)でも言及される予定。

(註2)漱石『こゝろ』で謎の自殺をした副主人公


資料B 大逆事件をめぐる「歴史と反復」

1905(明治38)日露戦争終結・ポーツマス条約
日比谷焼討事件
ロシア血の日曜日(第一革命の原因)
孫文・中国革命同盟会結成(東京)、科挙制度廃止
1906(〃39)南満州鉄道株式会社設立(金融資本の大陸進出)
インド、対英反抗運動スワラジ(自治)スワデシ(国産品愛用)
1908(〃41)神田・錦輝館の赤旗事件(大杉栄ら検挙)
青年トルコ党の革命
1909(〃42)伊藤博文(韓国統監府初代統監)ハルビン駅頭で安重根に暗殺される
イラン国民軍蜂起テヘラン占領
1910(〃43)大逆事件(幸徳秋水ら就縛)
日韓併合、関税自主権の確立
「 白樺」創刊(前年には「スバル」、前々年には「アララギ」)
石川啄木「性急な思想」「時代閉塞の現状」
1911(〃44)徳富健次郎(蘆花)『謀反論』(大逆事件被告処刑に抗議)
維新資料編纂局設置、南北朝正閏論争起こり南朝を正統と定める
西田幾太郎『善の研究』
柳田國男『石神問答』『遠野物語』(農政学から民俗学へ)註1
平塚らいてう「青鞜社」結成
辛亥革命
1912(〃45)明治天皇逝去(乃木希典夫妻殉死、cf. 夏目漱石『こころ』、
鴎外『興津弥五右衛門の遺書』『阿部一族』)、鴎外『かのやうに』
石川啄木「A LETTER FROM PRISON」(幸徳の陳弁書)、
同年啄木死す(27)
美濃部達吉『憲法講話』(政党内閣支持の憲法論)、
天皇主権説の上杉慎吉との間で「天皇機関説」論争起こる
清朝滅亡
タゴール詩集『ギータンシャリ』(翌年ノーベル文学賞)
1913(大正2)桂太郎内閣に反対する憲政擁護運動激化
1915(〃4)中国に21 カ条要求(帝政反対の第三革命、胡適らの文学革命起こる)
1916(〃5)吉野作造、デモクラシーを唱導
1917(〃6)ロシア革命
1918(〃7)第一次世界大戦の終結と「帝国」(独・墺・露・土)の解体
シベリア出兵 米騒動
1919(〃8)普通選挙運動起こる
国家改造運動勃興、北一輝・大川周明「猶存社」結成
朝鮮万歳事件(三・一独立運動)
中国五・四運動(排日運動)
インド、ガンディー国民会議議長による反英不服従運動始まる
第3 インターナショナル(コミンテルン)結成
1920(〃9)日本、国際連盟に正式加入(常任理事国)
経済恐慌起こる
1921(〃10)日・米・英・仏四カ国条約(太平洋問題)、日英同盟廃棄
原敬首相暗殺(東京駅)
1922(〃11)ワシントン軍縮条約・海軍主力艦制限・九カ国極東条約
日本共産党結成(非合法)
全国水平社結成(部落解放運動本格化)
アナ・ボル論争激化(アナキズムVS. ボルシェヴィズム)
ムッソリーニのローマ進軍(伊ファシスト内閣成立)
1923(〃12)関東大震災
大杉栄殺害(甘粕事件)
堺利彦ら逮捕(第一次共産党事件)
虎ノ門事件(無政府主義者・難波大助が摂政宮狙撃、翌年死刑に)
1925(〃14)普通選挙法公布・治安維持法公布
1926(〃15)蒋介石、北伐開始
1927(昭和2)蒋介石クーデター、国共分離。毛沢東江西省井岡山に革命根拠地樹立
日本金融恐慌 第一次山東出兵
ソ連、スターリンの一国社会主義理論採択(トロツキー失脚)
1929(〃4)世界恐慌起こる


 近代以前の思想弾圧.1859 年: 安政の大獄(橋本左内が獄死、吉田松陰は刑死)
 大逆事件の約70 年前には水野忠邦の政治改革で人情本の出版を禁止、作者を罰す。直後の柳亭種彦の死1842 年

 永井荷風は大逆事件の8 年後に「花火」を、それに先立つ1913 年には「戯作者の死」で柳亭種彦の晩年の心境描く。
 「花火」では、エミール・ゾラが、ドレフュス事件(仏国のユダヤ人ドレフュス大尉が、軍の秘密をドイツ軍に漏洩した疑いで国家反逆罪に問われ物議を醸した)の不正を告発し、国外に亡命したことを引き合いに、次のように語る。
 「然しわたしは世の文学者と共に何も言はわなかつた。私は何となく良心の苦痛に堪へられぬやうな気がした。わたしは自ら文学者たる事について甚しき羞恥を感じた。以来わたしは自分の芸術の品位を江戸戯作者のなした程度まで引下げるに如くはないと思案した。
 その頃からわたしは煙草入をさげ浮世絵を集め三味線をひきはじめた。わたしは江戸末代の戯作者や浮世絵師が浦賀へ黒船が来やうが桜田御門で大老が暗殺されやうがそんな事は下民の与り知つた事ではない――否とやかく申すのは却つて畏多い事だと、すまして春本や春画をかいてゐた其の瞬間の胸中をば呆れるよりは寧ろ尊敬しやうと思立つたのである」その六年前(大逆事件の三年後)の作品、「戯作者の死」(後に改作の上、「散柳窓夕榮」に改題)では、この戯作者の心情を自らに引き寄せて次のように述懐させている。
 「禁令の打撃に長閑な美しい戯作の夢を破られなかつた昨日の日と、禁令の打撃に身も心も恐れちゞんだ今日の日との間には、劃然として消す事のできない境界ができた。そして今日といふ暗澹たる此方の境から花やかな昨日といふ彼方の境を打眺めて見ると、わが生涯といふものは今や全く過去に属して已に業に其終局を告げてしまつたものとしか思はれない。何一ツ将来に対して予期する力のなくなつた心の程のいたましさは己が書斎の書棚一ぱいに飾つてある幾多の著作さへ、其等は早何となく自分の著作といふよりは寧既に死んでしまつた或親しい友人――其の生涯の出来事を自分は儘く知り抜いて居る或親しい友人の遺著であるやうな心持がする」

 1910 年「白樺」創刊は明治日本にあったアナキズムの大正ヒューマニズムへの屈折
 幸徳事件の後、日本のアナキズムは堺利彦派と高畠素之派に分裂、後者は国家社会主義を唱えるようになる。『資本論』の完訳者・高畠の直系の弟子が尾崎士郎
 初稿の三分の一が抹殺された尾崎のデビュー作、「獄室の暗影」(ほか九編の「大逆事件もの」がある)講談社版全集(第七巻)テキストには、「(三百四十字検閲により削除)」、「(百二十七字削除)」といった内務省の検閲の痕がある。荷風のテキストは検閲をパス。
『人生劇場』の作者・尾崎は、早稲田大学高等予科(政治科)時代に、石橋湛山のいた東洋経済新報社にアルバイト学生として入社、その後、大逆事件の真相解明の目的で、堺利彦ら幸徳の関係者が多数出入りしていた売文社に転じる。
 尾崎はここで出会い食客となった高畠素之の影響で、一時期、国家社会主義運動にコミット、ロシア革命のあった大正六年には、堺利彦、大杉栄らとともに、警保局のブラックリストに載る。その後、体制翼賛会での活動など戦争協力により公職追放、この間も小説「大逆事件」や「天皇機関説」などの政治小説を書き継ぎ、『人生劇場』全6 巻を完成。
 権藤成卿・橘孝三郎らの戦時期の超国家主義(共同体回帰思想としての農本主義)は、アナキズムの系譜に属する一君万民思想──氏族共同体の祭祀としての天皇(柄谷「歴史と反復」注参照)。橘と白樺派(トルストイ主義)、武者小路実篤と西村伊作との接点

1961:大逆事件の唯一の生き残り坂本清馬らが再審請求(事件後50 年)
1967 年: 最高裁大法廷これを却下
大逆事件の60 年後= 1970 年、1968 年=「明治百年」

 1968 年の日本のアナキズムと反近代主義(近代日本とアジアという問題の回帰)
 高度成長下の「土着」・「情念」・「日本回帰」(柳田ブームと北一輝ブーム)
 啄木の問題提起(「時代閉塞の現状」)の歴史的反復──自然主義=近代文学批判「今や我々の多くはその心内(しんない)において自己分裂のいたましき悲劇に際会しているのである。思想の中心を失っているのである。/ 自己主張的傾向が、数年前我々がその新しき思索的生活を始めた当初からして、一方それと矛盾する科学的、運命論的、自己否定的傾向(純粋自然主義)と結合していた事は事実である」──自己主張/ 自己否定
 自然主義文学起る── 1904 年
 柳田國男と夏目漱石の自然主義文学批判──「明治日本」から「帝国日本」への移行期
 夏目漱石『吾輩は猫である』1905 年──「吾輩は二十世紀の猫だから……」
「主人は泣いたり、笑つたり、嬉しがつたり、悲しがつたり人一倍する代わりに何れも長く続いた事がない。よく云へば執着がなくて、心機がむやみに転ずるのだらうが、之を俗語に翻訳してやさしく云へば奥行のない、薄つ片の、鼻の張丈強いだゞつ子である」「主人は……やがて「天然居子は空間を研究し、論語を読み、焼芋を食ひ、鼻汁を垂らす人である」と言文一致で一気呵成に書き流した、何となくごたごたした文章である」
「大和魂! と新聞屋が云ふ。大和魂! と掏すり摸が云ふ。大和魂が一躍して海を渡つた。英国で大和魂の演説をする。独逸で大和魂の芝居をする」
『坊つちやん』1906 年──第二維新戦争
 江藤淳の私小説批判: 志賀直哉──自己絶対化=自己否定の文学に対する漱石の「他者」
 漱石論における「他者」概念の導入── 50 年代半ばの近代文学批判

 70年前後の「自然主義」=「近代文学」批判── cf. 柄谷「革命史年表」
 柄谷行人(「意識と自然」69 年): 自己同一性の危機の問題(漱石『坑夫』)
 私は私であるか──カント的アンチノミー
「倫理的位相」(対象としての「私」)・「存在論的位相」(対象化しえない「私」)の分裂
「他者」論と独我論の超克──「自然主義」批判、「近代文学」批判

 前近代的「物語」と近代「小説」の相克──共同体(物語)から市民社会(小説)へ
 1970:三島事件──天皇問題に関しての反復強迫(註2)
 1989:昭和の終焉と東西冷戦の終結
 これを起点に90 年代以降漸く、幸徳ほか大逆事件の刑死者らの名誉回復(地方自治体による超党派の顕彰決議)の動き活発となる。仏教諸宗派が相次いで内山愚童、高木顕明、峯尾節堂ら事件関係者の僧籍剥奪処分撤回を公表
 2010:大逆事件(日韓併合)100 周年

(註 1)柄谷行人:「大正期になって、民俗学者柳田國男は皇室の儀礼の祖型を村の儀式に見た。(略)柳田がこの時期、彼の民俗学を「新国学」と呼びはじめたことに注意すべきだろう。彼は最初、日本の中の異質な存在としての「山人」に関心をもっていた。しかし、大正期においてその仮説を放棄した。いいかえれば、一切の外部性を廃棄したのである。(略)その意味で、柳田國男は「大正的な」言説を代表するものである」(「近代日本における歴史と反復」)

(註2)柄谷行人:「三島の考えでは、昭和天皇は、その当時の天皇主義者が予期したように、昭和二十年で死ぬはずであり、それによって「神」となるべきだった。ところが、天皇は「人間宣言」をし国民統合の象徴として生き延びた。三島はこの天皇を軽蔑していた。(略)彼の自殺は、戦後の天皇の殺害と同じことを意味する」(同上)
 なお、柄谷氏は「近代日本の言説空間」(『定本 柄谷行人集5』)で、昭和と明治の反復構造説(60年周期)に基づき、三島由紀夫の自決(昭和45年)を、乃木将軍殉死(明治45年)と対比している。ただ、上記引用文からもこれを大逆事件(1910)から60年後の天皇問題に関する反復強迫、即ち「抑圧されていたものの回帰」(フロイト)と捉えることも十分可能だろう。

第二回 長池講義 開催情報
 会   場長池公園自然館 東京都八王子市(長池公園自然館は会場を提供しているだけなので、講演の内容などについて問い合わせをしても答えられません。ルートの確認なども含め、問い合わせしないようにお願いします。)
長池公園自然館(ネイチャーセンター)への行き方>>
 日   時2008年6月21日 土曜日 午後1時から5時まで
 講   師柄谷行人、高澤秀次ほか
 テ ー マ国家論
 定   員45名 (先着順。定員になり次第締め切らせていただきます)
 入 場 料無料
 お申し込み定員に達しましたので、申し込みをしめきりました。(2008年05月18日)


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