第二回長池講義 高澤講義レジュメ
 以下の資料(A、B)は、08年5月17・18日に静岡で開催された「有度サロン」での柄谷行人氏との対話のために用意したレジュメを一部改稿したものです。
 「歴史と反復」(『定本 柄谷行人集5』)の60年周期説は、近年120年周期説へと転回、1848年ヨーロッパ革命の1968年における反復構造など、世界資本主義の諸段階に即した対応関係が開示されつつあります。ただし、ここでは氏の60年周期説に立ち返って、日露戦争後の「明治」と「昭和」の反復構造を再整理(資料A)、加えて日本近代史のアポリア「大逆事件」をめぐる「歴史と反復」を、アジア史、世界史の文脈のなかに位置づけてみました(資料B)。

資料A 明治日本と昭和戦後の歴史的反復(60 年周期の再現前)
2008/6/17
高澤秀次

1905:日露戦争終結(ポーツマス条約) 1965:日韓条約調印(韓国進出の契機)
1906:満鉄設立(金融資本大陸進出) 1967:資本自由化 GNP 世界3 位
1907:足尾銅山、暴動罷業 1960年代後半…公害社会問題化(水俣)
1908〜11:第二次桂太郎内閣とアナキズム 1967〜70:第二次佐藤内閣と全共闘運動
1909:自由劇場起こる(新劇) 1969:アングラ演劇運動全盛
1910:
1911:
大逆事件
関税自主権の確立
 1970:
1971:
三島由紀夫自決
変動相場制に移行
大江健三郎「みずから我が涙をぬぐいたまう日」註1
1912:明治アナキズムの敗北と啄木の死 1971:全共闘運動終息と高橋和巳の死
1917:石井・ランシング協定
(中国の領土保全・門戸開放)
 1977:日中平和条約・米中国交正常化

 柄谷(「近代日本の言説空間」):西暦による時代区分と元号による時代区分の「視差」から見える、歴史の反復構造──日本的文脈の意味「昭和三〇年代」まで

※ 最初の反復構造の顕れ:1900(明治33)と1960(昭和35)

 橋川文三『昭和維新試論』(朝日選書)所収「青年層の心理的転位」によると、かつてプリンストン大学のジャンセン教授は、「近代に対する日本人の態度の変遷」(『日本のおける近代化の問題』)で、「明治日本」から区別された「帝国日本」の出現と、その移行を「下関条約とポーツマス条約の間の十年間」、とくに便宜的な目安として明治33 年=1900を画期として行われたと論じた。
 橋川は言及していないが、この「移行」に対応するのは、昭和前期(「帝国日本」の暴走と解体)から、昭和後期(「帝国」の敗北後のポスト「戦後日本」)への決定的画期点となった昭和35 年=1960。日米安保条約の改定はその象徴。

 ジャンセン教授はまた、「近代化に対する日本人の態度の変遷」に関し、1880 年代の月並陳腐な政治小説から、近代作家たちの「内観的夢想」がそれに代わったことを指摘。
前者:矢野竜渓『経国美談』・東海散史『佳人之奇遇』・末広鉄腸『雪中梅』
後者:二葉亭四迷『浮雲』から『蓬莱曲』『内部生命論』に至る北村透谷の劇詩・散文


 なお、「明治日本」から「帝国日本」への過渡期を前景化した花田清輝の戯曲に『爆裂弾記』(1962)。自由民権運動の解体期に起こった「大阪事件」1885 年(明治18)に着想を得た、壮士たちと爆裂弾をめぐる悲喜劇。事件は旧自由党左派・大井憲太郎らが、朝鮮に渡って閔妃ら保守派を一掃しようと画策、事前に検挙。「帝国日本」はこの後、朝鮮侵略を本格化、日清戦争の翌年には実際に王妃閔氏を暗殺。北村透谷はこの謀議から離脱、文学に転じて「内観的夢想」を言語化。朝鮮独立派壊滅と同年の福澤諭吉「脱亜論」。

 また、有島武郎は『或る女』で日清戦争後の精神状況について次のように印す。
「その当時は日露の関係も日米の関係も嵐の前のやうな暗い徴候を現はし出して、国人全体は一種の圧迫を感じ出してゐた。臥薪嘗胆といふやうな合ひ言葉が頻りと言論界には説かれてゐた。然しそれと同時に日清戦争を相当に遠い過去として眺め得るまでに、その戦役の重い負担から気のゆるんだ人々は、漸く調整され始めた経済状態の下で、生活の美装といふ事に傾いてゐた」

cf. 柄谷行人「近代日本の言説空間.1970 年= 昭和四十五年」
「たとえば、キリスト教に向かった北村透谷や、禅に向かった西田幾太郎をみればよい。彼らはそれぞれ政治的な闘いに敗れたあと、急速に整備されるブルジョア国家の体制にたいして、「内面」に立てこもった。つまり、「明治維新」の可能性が閉ざされたあとで、世俗的なもの一切に対立しようとしたのだ。しかも、彼らは世俗的= 自然的なものに敗れざるをえなかった。透谷は自殺し、西田幾太郎は屈辱をしのんで東京帝国大に選科生(聴講生)に入ったのである。K 註2もまたそのようなタイプであったといえる」。他に柄谷「内面の発見」(『日本近代文学の起源』)

※「昭和維新」の可能性が閉ざされた60 年安保後の、「戦後日本」への三島由紀夫(右)・江藤淳(保守)・吉本隆明(左)三者のの反逆的位相とその敗北(戦後思想と戦後文学)三島由紀夫の「戦後」への呪詛:『鏡子の家』から『英霊の声』へ

 ジャンセン:「自己完成の可能性へのオプティミズム」から、懐疑的な「内観的夢想」(introspective reverise)への転位。
 橋川はその劇的な推移の傍証として岩波茂雄の次の言葉を引く(前掲書)。
「乃公(だいこう)出でずんば蒼生を如何せん、といったような慷慨悲憤の時代のあとをうけて、人生とは何ぞや、われは何処より来りて何処へ行く、というようなことを問題とする内観的煩悶の時代」(『岩波茂雄伝』)へ。「現代人の孤独」の起源。

(註1) 1960年(安保闘争)のパロディ(1860年の四国の森での農民一揆を喚起)として、『万延元年のフットボール』(67年)を書いた大江は、この作品で「純粋天皇」とともに、大逆事件に連座して処刑された男の娘を主人公の母親として登場させている。なお、本作品については、『新潮』8月号掲載の小林敏明論文参照。08年8月8日から新宮市で開催される熊野大学夏期特別セミナーの基調講演(「大江健三郎から中上健次へ」)でも言及される予定。

(註2)漱石『こゝろ』で謎の自殺をした副主人公


資料B 大逆事件をめぐる「歴史と反復」

1905(明治38)日露戦争終結・ポーツマス条約
日比谷焼討事件
ロシア血の日曜日(第一革命の原因)
孫文・中国革命同盟会結成(東京)、科挙制度廃止
1906(〃39)南満州鉄道株式会社設立(金融資本の大陸進出)
インド、対英反抗運動スワラジ(自治)スワデシ(国産品愛用)
1908(〃41)神田・錦輝館の赤旗事件(大杉栄ら検挙)
青年トルコ党の革命
1909(〃42)伊藤博文(韓国統監府初代統監)ハルビン駅頭で安重根に暗殺される
イラン国民軍蜂起テヘラン占領
1910(〃43)大逆事件(幸徳秋水ら就縛)
日韓併合、関税自主権の確立
「 白樺」創刊(前年には「スバル」、前々年には「アララギ」)
石川啄木「性急な思想」「時代閉塞の現状」
1911(〃44)徳富健次郎(蘆花)『謀反論』(大逆事件被告処刑に抗議)
維新資料編纂局設置、南北朝正閏論争起こり南朝を正統と定める
西田幾太郎『善の研究』
柳田國男『石神問答』『遠野物語』(農政学から民俗学へ)註1
平塚らいてう「青鞜社」結成
辛亥革命
1912(〃45)明治天皇逝去(乃木希典夫妻殉死、cf. 夏目漱石『こころ』、
鴎外『興津弥五右衛門の遺書』『阿部一族』)、鴎外『かのやうに』
石川啄木「A LETTER FROM PRISON」(幸徳の陳弁書)、
同年啄木死す(27)
美濃部達吉『憲法講話』(政党内閣支持の憲法論)、
天皇主権説の上杉慎吉との間で「天皇機関説」論争起こる
清朝滅亡
タゴール詩集『ギータンシャリ』(翌年ノーベル文学賞)
1913(大正2)桂太郎内閣に反対する憲政擁護運動激化
1915(〃4)中国に21 カ条要求(帝政反対の第三革命、胡適らの文学革命起こる)
1916(〃5)吉野作造、デモクラシーを唱導
1917(〃6)ロシア革命
1918(〃7)第一次世界大戦の終結と「帝国」(独・墺・露・土)の解体
シベリア出兵 米騒動
1919(〃8)普通選挙運動起こる
国家改造運動勃興、北一輝・大川周明「猶存社」結成
朝鮮万歳事件(三・一独立運動)
中国五・四運動(排日運動)
インド、ガンディー国民会議議長による反英不服従運動始まる
第3 インターナショナル(コミンテルン)結成
1920(〃9)日本、国際連盟に正式加入(常任理事国)
経済恐慌起こる
1921(〃10)日・米・英・仏四カ国条約(太平洋問題)、日英同盟廃棄
原敬首相暗殺(東京駅)
1922(〃11)ワシントン軍縮条約・海軍主力艦制限・九カ国極東条約
日本共産党結成(非合法)
全国水平社結成(部落解放運動本格化)
アナ・ボル論争激化(アナキズムVS. ボルシェヴィズム)
ムッソリーニのローマ進軍(伊ファシスト内閣成立)
1923(〃12)関東大震災
大杉栄殺害(甘粕事件)
堺利彦ら逮捕(第一次共産党事件)
虎ノ門事件(無政府主義者・難波大助が摂政宮狙撃、翌年死刑に)
1925(〃14)普通選挙法公布・治安維持法公布
1926(〃15)蒋介石、北伐開始
1927(昭和2)蒋介石クーデター、国共分離。毛沢東江西省井岡山に革命根拠地樹立
日本金融恐慌 第一次山東出兵
ソ連、スターリンの一国社会主義理論採択(トロツキー失脚)
1929(〃4)世界恐慌起こる


 近代以前の思想弾圧.1859 年: 安政の大獄(橋本左内が獄死、吉田松陰は刑死)
 大逆事件の約70 年前には水野忠邦の政治改革で人情本の出版を禁止、作者を罰す。直後の柳亭種彦の死1842 年

 永井荷風は大逆事件の8 年後に「花火」を、それに先立つ1913 年には「戯作者の死」で柳亭種彦の晩年の心境描く。
 「花火」では、エミール・ゾラが、ドレフュス事件(仏国のユダヤ人ドレフュス大尉が、軍の秘密をドイツ軍に漏洩した疑いで国家反逆罪に問われ物議を醸した)の不正を告発し、国外に亡命したことを引き合いに、次のように語る。
 「然しわたしは世の文学者と共に何も言はわなかつた。私は何となく良心の苦痛に堪へられぬやうな気がした。わたしは自ら文学者たる事について甚しき羞恥を感じた。以来わたしは自分の芸術の品位を江戸戯作者のなした程度まで引下げるに如くはないと思案した。
 その頃からわたしは煙草入をさげ浮世絵を集め三味線をひきはじめた。わたしは江戸末代の戯作者や浮世絵師が浦賀へ黒船が来やうが桜田御門で大老が暗殺されやうがそんな事は下民の与り知つた事ではない――否とやかく申すのは却つて畏多い事だと、すまして春本や春画をかいてゐた其の瞬間の胸中をば呆れるよりは寧ろ尊敬しやうと思立つたのである」その六年前(大逆事件の三年後)の作品、「戯作者の死」(後に改作の上、「散柳窓夕榮」に改題)では、この戯作者の心情を自らに引き寄せて次のように述懐させている。
 「禁令の打撃に長閑な美しい戯作の夢を破られなかつた昨日の日と、禁令の打撃に身も心も恐れちゞんだ今日の日との間には、劃然として消す事のできない境界ができた。そして今日といふ暗澹たる此方の境から花やかな昨日といふ彼方の境を打眺めて見ると、わが生涯といふものは今や全く過去に属して已に業に其終局を告げてしまつたものとしか思はれない。何一ツ将来に対して予期する力のなくなつた心の程のいたましさは己が書斎の書棚一ぱいに飾つてある幾多の著作さへ、其等は早何となく自分の著作といふよりは寧既に死んでしまつた或親しい友人――其の生涯の出来事を自分は儘く知り抜いて居る或親しい友人の遺著であるやうな心持がする」

 1910 年「白樺」創刊は明治日本にあったアナキズムの大正ヒューマニズムへの屈折
 幸徳事件の後、日本のアナキズムは堺利彦派と高畠素之派に分裂、後者は国家社会主義を唱えるようになる。『資本論』の完訳者・高畠の直系の弟子が尾崎士郎
 初稿の三分の一が抹殺された尾崎のデビュー作、「獄室の暗影」(ほか九編の「大逆事件もの」がある)講談社版全集(第七巻)テキストには、「(三百四十字検閲により削除)」、「(百二十七字削除)」といった内務省の検閲の痕がある。荷風のテキストは検閲をパス。
『人生劇場』の作者・尾崎は、早稲田大学高等予科(政治科)時代に、石橋湛山のいた東洋経済新報社にアルバイト学生として入社、その後、大逆事件の真相解明の目的で、堺利彦ら幸徳の関係者が多数出入りしていた売文社に転じる。
 尾崎はここで出会い食客となった高畠素之の影響で、一時期、国家社会主義運動にコミット、ロシア革命のあった大正六年には、堺利彦、大杉栄らとともに、警保局のブラックリストに載る。その後、体制翼賛会での活動など戦争協力により公職追放、この間も小説「大逆事件」や「天皇機関説」などの政治小説を書き継ぎ、『人生劇場』全6 巻を完成。
 権藤成卿・橘孝三郎らの戦時期の超国家主義(共同体回帰思想としての農本主義)は、アナキズムの系譜に属する一君万民思想──氏族共同体の祭祀としての天皇(柄谷「歴史と反復」注参照)。橘と白樺派(トルストイ主義)、武者小路実篤と西村伊作との接点

1961:大逆事件の唯一の生き残り坂本清馬らが再審請求(事件後50 年)
1967 年: 最高裁大法廷これを却下
大逆事件の60 年後= 1970 年、1968 年=「明治百年」

 1968 年の日本のアナキズムと反近代主義(近代日本とアジアという問題の回帰)
 高度成長下の「土着」・「情念」・「日本回帰」(柳田ブームと北一輝ブーム)
 啄木の問題提起(「時代閉塞の現状」)の歴史的反復──自然主義=近代文学批判「今や我々の多くはその心内(しんない)において自己分裂のいたましき悲劇に際会しているのである。思想の中心を失っているのである。/ 自己主張的傾向が、数年前我々がその新しき思索的生活を始めた当初からして、一方それと矛盾する科学的、運命論的、自己否定的傾向(純粋自然主義)と結合していた事は事実である」──自己主張/ 自己否定
 自然主義文学起る── 1904 年
 柳田國男と夏目漱石の自然主義文学批判──「明治日本」から「帝国日本」への移行期
 夏目漱石『吾輩は猫である』1905 年──「吾輩は二十世紀の猫だから……」
「主人は泣いたり、笑つたり、嬉しがつたり、悲しがつたり人一倍する代わりに何れも長く続いた事がない。よく云へば執着がなくて、心機がむやみに転ずるのだらうが、之を俗語に翻訳してやさしく云へば奥行のない、薄つ片の、鼻の張丈強いだゞつ子である」「主人は……やがて「天然居子は空間を研究し、論語を読み、焼芋を食ひ、鼻汁を垂らす人である」と言文一致で一気呵成に書き流した、何となくごたごたした文章である」
「大和魂! と新聞屋が云ふ。大和魂! と掏すり摸が云ふ。大和魂が一躍して海を渡つた。英国で大和魂の演説をする。独逸で大和魂の芝居をする」
『坊つちやん』1906 年──第二維新戦争
 江藤淳の私小説批判: 志賀直哉──自己絶対化=自己否定の文学に対する漱石の「他者」
 漱石論における「他者」概念の導入── 50 年代半ばの近代文学批判

 70年前後の「自然主義」=「近代文学」批判── cf. 柄谷「革命史年表」
 柄谷行人(「意識と自然」69 年): 自己同一性の危機の問題(漱石『坑夫』)
 私は私であるか──カント的アンチノミー
「倫理的位相」(対象としての「私」)・「存在論的位相」(対象化しえない「私」)の分裂
「他者」論と独我論の超克──「自然主義」批判、「近代文学」批判

 前近代的「物語」と近代「小説」の相克──共同体(物語)から市民社会(小説)へ
 1970:三島事件──天皇問題に関しての反復強迫(註2)
 1989:昭和の終焉と東西冷戦の終結
 これを起点に90 年代以降漸く、幸徳ほか大逆事件の刑死者らの名誉回復(地方自治体による超党派の顕彰決議)の動き活発となる。仏教諸宗派が相次いで内山愚童、高木顕明、峯尾節堂ら事件関係者の僧籍剥奪処分撤回を公表
 2010:大逆事件(日韓併合)100 周年

(註 1)柄谷行人:「大正期になって、民俗学者柳田國男は皇室の儀礼の祖型を村の儀式に見た。(略)柳田がこの時期、彼の民俗学を「新国学」と呼びはじめたことに注意すべきだろう。彼は最初、日本の中の異質な存在としての「山人」に関心をもっていた。しかし、大正期においてその仮説を放棄した。いいかえれば、一切の外部性を廃棄したのである。(略)その意味で、柳田國男は「大正的な」言説を代表するものである」(「近代日本における歴史と反復」)

(註2)柄谷行人:「三島の考えでは、昭和天皇は、その当時の天皇主義者が予期したように、昭和二十年で死ぬはずであり、それによって「神」となるべきだった。ところが、天皇は「人間宣言」をし国民統合の象徴として生き延びた。三島はこの天皇を軽蔑していた。(略)彼の自殺は、戦後の天皇の殺害と同じことを意味する」(同上)
 なお、柄谷氏は「近代日本の言説空間」(『定本 柄谷行人集5』)で、昭和と明治の反復構造説(60年周期)に基づき、三島由紀夫の自決(昭和45年)を、乃木将軍殉死(明治45年)と対比している。ただ、上記引用文からもこれを大逆事件(1910)から60年後の天皇問題に関する反復強迫、即ち「抑圧されていたものの回帰」(フロイト)と捉えることも十分可能だろう。