第二回 長池講義 講義録
2008/6/21
柄谷行人

「互酬の力」

 一般に、先史時代に関しては、狩猟採集、漁労、農耕、牧畜、あるいは、石器・青銅器・鉄器といった発展段階から語られる。これは、歴史を、人間と自然の関係という観点から見るものである。これはまちがいではない。事実、人間と人間の関係は、人間と自然の関係を基礎にしているからだ。だが、人間と自然の関係は、人間と人間の関係を通してしか、つまり、一定の社会的な関係を通してしかありえない。前者が後者を規定するだけでなく、後者も前者を規定するのである。

 未開社会における「人間と人間の関係」のあり方は、人間と自然の関係、あるいは生産力という観点からは説明できない。生産力が低いから、こうした社会が形成されるのではない。その逆である。このような「人間と人間の関係」のあり方が、生産力を高める動機を与えないのだ。ゆえに、われわれは「人間と自然の関係」に先立って、「人間と人間の関係」を考察しなければならない。

 その場合、二つの視点が可能である。一つは、マルクスがそうしたように、「生産様式」からみることである。それは、具体的には、誰が生産手段を所有するかという観点である。また、生産手段とは、事実上、土地のことである。そこで、マルクスは、原始社会の特性を共同体所有に見いだし、そこから、私的所有、階級差と対立、さらに、国家の形成という道筋を想定したのである。一方、モースは、原始社会の特性を互酬交換に見いだした。つまり、彼は互酬を、外婚制や首長制、さらに供犠など、社会的・政治的・宗教的とされる次元すべてにおいて貫徹される原理として見いだしたのである。

 一見すると、この二つは対立するか、または、まったく結びつかないようにみえる。しかし、実は深い所でつながっている。私がいう「交換様式」の視点は、この二つを結びつけるものである。

 共同体的所有というと、個人の所有がまったくないかのように誤解される。しかし、たとえば、武器や道具は個人の所有物である。共同体所有となるのは、特に、生産手段としての土地(テリトリー)である。その場合でも、諸個人や所帯は使用権において、そして、それによって生じる財において差がある。しかし、それは階級的な格差にも、国家の形成にもいたらなかった。

 実際、未開社会は、狩猟採集のみの社会から、狩猟採集のほかに漁業、あるいは簡単な農耕・牧畜を行う社会にいたるまで多様である。また、政治的な形態では、単純なバンド社会から、首長制・王制の社会に及んでいる。商品交換や富の不平等、さらに奴隷が存在するところもある。にもかかわらず、それらは国家になることはなく、階級社会になることもない。なぜか。マルクスなら、「共同体的所有」が存在するからだ、と答えるだろう。一方、モースは互酬原理があるからだと答えるだろう。つまり、互酬性が富や権力の集中を妨げるからだ、と。

 しかし、実際は、これらは同じことを意味しており、且つ、相補的である。共同体所有がどのように作用するのかを見るためには、互酬交換を見なければならないし、互酬原理がなぜ作用するかを見るためには、共同体所有を見なければならないのである。

 モースは、互酬がいかにして成立するのか、つまり、なぜ贈与が、贈与された側に返礼を強要するのかを考えようとした。彼はその謎を解く鍵を、未開人(マオリ族)がハウと呼ぶ呪力に求めた。もし返礼しないならば、贈与物に付随するハウが、災禍をもたらす、と彼らは考えている。別の見方でいえば、その物らが元いた所に戻りたがっている、と。だが、このような見方は、モースがもたらした互酬の理論を受け入れた人々の間でも、批判の的となってきた。たとえば、レヴィ=ストロースは、モースの考えは未開人の思考に従うだけで終っている、と批判した。

 しかし、未開人の見方に反して互酬を科学的に説明しようとすると、近代の心理学的見方になってしまいがちである。それは、互酬を、商品交換と類似したものと見ることになる。たとえば、贈与された物がもつハウは、贈与された者がもつ心理的な債務感から説明される。その場合、負債は、贈与された物の経済的価値と似たものになる。だが、これでは商品交換と互酬の違いがわからない。

 モースによれば、互酬を支えるものとして、贈与する義務、受け取る義務、返礼する義務、という三つの義務がある。心理的な債務感という見方では、贈与する義務や受け取る義務を説明できない。一方、気前よく贈与するのは、それが社会的な威信を与えるからだ、という説明がある。だが、「贈与する義務」をそのような理由によって説明することはできない。贈与の義務がある社会では、気前よく贈与することは威信を高めるし、そうしないなら不名誉で威信を落とすことになる。つまり、贈与の義務だけが特にそうなのではない。何であれ、共同体の義務を果たすことは名誉であり、そうしないことは、不名誉である。

 いずれにしても、互酬を強いる力を、近代的な見方で説明することはできない。その意味で、われわれはモースが物に宿る力(ハウ)にこだわったことを重視しなければならない。モーリス・ゴドリエは、ハウの力を、物に対する所有権と使用権から考えた。贈与において、使用権は譲られるが、所有権は譲られない。だから、贈与物のハウが元に戻りたがるということは、贈与されたものが依然として贈与者の所有物であるということを意味するにすぎない。物の所有権が譲渡不可能だというのは、それが共同体的所有だからである。

 しかし、モース自身が、以上のことをわかっていたはずである。彼は「マナ」について論じた初期の呪術論から、呪力が社会的なものであることを強調していたからだ。また、モースに先立って、その叔父デュルケムが、所有権が社会的なものであること、そして、未開社会では、それは宗教的な形態をとってあらわれることを強調していた。デュルケムは所有権の根底に宗教的なタブーを見いだした。タブーとは、ある物を聖なるものとして、神事の領域に属するものとして斥けることである。神聖化されないかぎり、所有は成立しない。そして、神聖なるものは、事物そのものに宿る(『社会学講義』)。

 所有権が人間ではなく物に宿るということは、所有が「共同体的所有」として始まることを意味している。人々は、物が共同体の所有であることを直接に意識することはない。それを、物に精霊が宿っていると意識するのである。ゆえに、贈与された物には、共同体の所有権が精霊として付随するわけである。

 このように共同体的所有という点から見れば、贈与の義務や受け取る義務を合理的に説明することができる。第一に、贈与の義務とは、個人や所帯は、たとえ個人的に使用していても、それが本来共同体に属するものであるからには、共同体のために放出しなければならない、ということである。では、共同体の目的とは何か。狩猟採集の段階ではたえず狩猟範囲をめぐる衝突が生じるため、共同体は他の共同体との間に友好的な関係を築かなければならなかった。そして、贈与はそのために不可欠な手段であった。

 共同体の成員は、共同体の存続のために、個々人の所有を放棄しなければならない。この問題は、外婚制とインセストの禁止の問題から考えてみても明らかである。外婚制は、共同体と共同体の紐帯を作りだすために必要である。インセストが禁止されるのはそのためだ。さらに、同じ理由から、略奪婚が説明できる。レヴィ=ストロースはいう。《略奪婚は、互酬性の法則に矛盾しない。むしろ、互酬性を実行にうつすための可能な合理的方法の一つである。花嫁の誘拐は娘たちを擁する一切の集団が負っている彼女たちを譲渡する義務を劇的に表現している》(『親族の基本構造』)。すなわち、略奪婚が許されるのは、娘を略奪される側が、もともと娘を「贈与する義務」をもっているからだ。

 「贈与を受け取る義務」についていえば、贈与を受け取らないのは、他の共同体を斥けることである。それはたんに人間を斥けるだけでなく、物に宿る神あるいは呪力を斥けることになる。贈与を受け取らないのは、贈与を受け取ってお返しをしないのと同じことだ。この場合、お互いが贈与の効果を信じているのでなければ、贈与の効果はない。しかし、贈与を受け取ることを拒むことで災禍が生じると考えるのは、必ずしも迷信とはいえない。受け取りを拒んだ後に、共同体間の戦争が待ち受けているからだ。

 贈与の互酬を通して、さらに、娘の贈与による親族関係を通して、氏族はより大きな共同体(部族や部族連合体)を形成するようになる。この意味で、贈与の互酬は、共同体が他の共同体との間に、和平と交易の関係を作りだす原理なのである。だが、それによって、他の共同体への忌避や敵対性が一掃されるものではない。それは、たとえ上位の共同体が形成されても、下位の共同体の独立性が消えないということを意味する。このため、他の共同体との関係において、贈与は友好的関係を築くものであると同時に、しばしば競争的なものとなる。つまり、ポトラッチのように、相手を返済できないほどの過度の贈与によって圧伏させるものとなる。もちろん、これは相手を支配するためになされるのではない。共同体の独立性(威信)を守るためになされる。

 この意味で、血讐も互酬的reciprocalであると考えられる。たとえば、共同体の成員が他の共同体の成員によって殺された場合、報復reciprocationがなされる。報復の「義務」は贈与・返礼の「義務」と似たようなものだ。共同体の成員が殺された場合、それは共同体所有の喪失であるから、加害者の共同体に同じ喪失をこうむらせることでしか償われない。血讐にはそれに対する報復がなされ、それがとめどなく続くことになる。ポトラッチにおける贈与の応酬がどちらの共同体も壊滅させてしまうことがあるが、血讐も同様である。それが禁じられるのは、犯罪を裁く上位組織(国家)が成立するときである。逆にいうと、このことは、血讐の存在が国家の形成を妨げることを示している。血讐は上位組織に対する各共同体の独立性を回復するからである。