第一回長池講義 高澤講義レジュメ
「国家論」に関するノート
2007/11/7
高澤秀次

1 国家論の系譜

■戦後日本の国家論の系譜

・天皇制国家論
 神山茂夫『天皇制に関する理論的諸問題』
 藤田省三『天皇制国家の支配原理』
・古代国家論
 石母田正『日本の古代国家』
 林屋辰三郎『古代国家の解体』
 林屋は律令体制国家下の日本貴族の官僚的性格にはじめてメスを入れた。日本における「公」の意識は、一貫してこの体制によって権威づけられた機構を指すものに終始。将軍も律令的官職に憧憬を持ち続けた。明治政府も太政官機構の内部改造によって近代化図る。
・上部構造論としての国家論
 三浦つとむの「国家意志論」(「個人意思・階級意思・国家意思の区別と関連―丸山政治学の論理的性格」)――国家の共同意志を問題化
国家は階級の共同利害とそれを超えたところのものを国家意志として観念的に対象化する
 階級としての立場からの共同利害を、超階級的であるかのように擬装し、特殊利害が幻想的な「一般」利害として国家意志に反映。

 cf.マルクス『ドイツ・イデオロギー』:
 「分業」と同時に諸個人の特殊な利害と、共同的利害との矛盾が顕わになる。「しかも、この共同的利害というのは、何かしら単に表象の内に「普遍的なもの」としてあるのではなく、まさしく、特殊的利害と共同的利害とのこの矛盾から、共同的利害は国家として、現実の個別的な利害ならびに全体的利害から切り離された自立的な姿をとる(そして同時に幻想的な共同性として)」(廣松渉編訳)
 近代日本にあって、この超階級的「擬装」は、そのまま「天皇制国家」として表象される
 この「国家意志論」を継承発展させたのが滝村隆一(『マルクス主義国家論』他)
〈狭義の国家〉=〈国家権力〉――〈共同体―内―国家〉
〈広義の国家〉=〈国家〉――――〈共同体―即―国家〉
 歴史的位相を異にする〈原始的〉社会以来の共同体が、他共同体〈種族〉との直接的関係〈交通関係〉をもつに至ったとき、それはすべて〈国家〉として構成される(あるいはされざるをえない)という事実を国家論の根本発想とする〈共同体―即―国家〉説


2 「国家」と「社会」との関係について

■国家と社会

 〈国家〉は〈市民社会〉という・現実的生活諸関係の総体としての実在的土台の、〈政治制度〉的表現=〈観念的・イデオロギー的〉外皮にすぎない……饅頭の中身であるアンコと皮の関係
 国家は内外危難に対する社会総体の政治組織。いわば社会というアンコを包んだ饅頭の皮が国家。近代的・資本主義的(帝国主義)国家の対外国家理念は、一般に支配階級の経済的「共同利害」を体現した、対外経済政策の上品なオブラート程度で、それ以上の擬装された超階級的な「共同利害」、超越的な国家意志は希薄。cf.超国家主義の問題
 戦前・戦中の超国家思想は前近代的天皇制と近代資本主義との二重構造の解消を根本モチーフとしていた。

■超・脱国家志向(=共同体回帰)の系譜

 橘孝三郎の共同体運動(「愛郷塾」)
 権藤成卿の『自治民範』、『自治民政理』と農本主義
権藤(1868〜1937):共同体回帰の根底に「社稷」理念を置く
 「社」――土地の神
 「稷」――五穀の神
 天皇制国家の確立にともない、国家を超えるものとしての「社稷」が衰退
 民衆の自治を否定する国家の統治に反対・権力からの自立……アナキズムの要素
 近代化によって喪失したものの回復……天皇制を正当化(同時に近代・資本主義批判)

■国家上部構造論の根拠としての『ドイツ・イデオロギー』

 廣松渉(『唯物史観と国家論』):『ドイツ・イデオロギー』に盛られた国家論の要諦
 (1)幻想的な共同体としての国家
 (2)市民社会の総括(「一時代の市民社会全体が集約されている形態」)としての国家
 (3)支配階級に属する諸個人の共同体としての国家
 (4)支配階級の支配機関としての国家
「市民社会は国家と国民を超えている」(『ド・イデ』)
 所有関係がすでに古代と中世の共同体Gemeinwesenから抜けだし終え、生産諸力の一定の発展段階の内部での諸個人の物質的交通を包括し、あらゆる段階の商業と工業の生活全体を包括している限りにおいて。

■自由人の連合と国家の死滅:

市民社会での私人と政治的国家内の公民の自己分裂の止揚
・マルクス:
 「プロレタリアートは、プロレタリアートとしての自分自身を揚棄し、それによってあらゆる階級区別と階級対立を揚棄し、それによって国家としての国家をも揚棄する。……(略)……国家が現実に全社会の代表として登場する最初の行為―社会の名においておこなわれる生産手段の掌握―は、同時に、国家が国家としておこなう最後の自主的行為である。社会的諸関係にたいする国家権力の干渉は、一つの分野から他の分野へと順次余計なものとなり、ついでおのずからねむりこんでしまう。……(略)……国家は「廃止」されるのではない。それは死滅するのである」(『反デューリング論』)
・エンゲルス:
 「国家はそれ故に永劫の昔からあるのではない。国家がなくてもすんだ。国家と国家権力を少しも知らなかった社会があった。社会の階級への分裂と必然的に結合していた経済発展の一定の段階の上に、この分裂によって国家が必然的になった。我々はいま駆け足で、これらの階級の存在が必然性であることをやめただけでなく、生産の積極的な障害になる生産の発展段階に近づく。それらの階級は、それらがかつて発生したのと同様に不可避的になくなるであろう。それらの階級とともに不可避的に国家はなくなる。生産を生産者の自由で平等な連合の基礎の上に組織しなおす社会は、全国家機構を、それがそのとき所属するであろう処に、古代博物館に、紡車や青銅の斧の隣りに、移す」(『家族、私有財産と国家の起源』)
・レーニン:
 「プロレタリア国家のブルジョア国家との交替は、暴力革命なしには不可能である。プロレタリア国家の揚棄、すなわちあらゆる国家の揚棄は、「死滅」の道による以外には不可能である」(『国家と革命』)

 その前提と「所有」の概念:「分業の廃止は共同社会Gemeinschaftなしには不可能である。共同社会のうちにのみ、各個人にとって、自己の素質を全面的に発達させる手段が存在する。またそれゆえ、共同社会のうちでこそ人格的自由も可能となる」(『ド・イデ』)cf.個体的所有の再建

・平田清明『市民社会と社会主義』:コミュニズム=自由人の連合体(生産と交通の再結合)
 共同所有にもとづく個体的所有(の「再建」)=近代以前の共同(体)所有の否定の否定
 無階級社会:生産と所有との結合
 市民社会:生産と交通の分離

・市民社会を超えるという発想の根はヘーゲル:市民社会を国家に止揚するという発想
マルクス:その転倒として、市民社会・ブルジョア社会を社会主義社会へ止揚する
唯物史観:世界史の発展史観の唯物論的転倒。個別歴史的にではなく、近代市民社会レベルからの原理的考察(近代以前の諸形態を素材的前提として組み込む)――最終的には経済理論的な『資本論』の方へ。
ヘーゲル:宗教において個人は己の存在の普遍性、共同性を自覚する。
ベネディクト・アンダーソン:宗教に代わる仮象としてのネーション―ナショナリズム
柄谷行人:
 啓蒙主義によって解体された宗教的世界観とは、「共同体の世界観」。世界宗教は個人の魂を救済するだろうが、共同体のこうした永続性は回復されない。それを想像的に回復するのがネーション=超越論的仮象(「死とナショナリズム」)cf,「世界共和国へ」
「新しい哲学」(1967年、『思想はいかに可能か』所収):
 戦後日本=国家と市民社会が極度に分離された〈社会的状況〉
 国家と市民社会の分離が、「超国家主義」の解体としてのポジティヴな意味を担っている間は、それが一つの「喪失」としてとらえられることは、ありえなかった。
 資本主義的合理化と民主主義国家の実現……人間の自己分裂の完成というパラドックス
 その分裂の表白者としての三島由紀夫と江藤淳……三島は国家の揚棄ではなく天皇を神とする宗教化による市民社会の揚棄。江藤は国家と市民社会の分離を「喪失」として把握

■吉本隆明の〈アジア〉的段階と「国家」についての考察
・アジア的専制
 (1)専制君主的共同体にたいして人民は物神を貢納したり、生産物の貢納や賦役、軍役の強制に従うことで土地を使用する代償とする。
 (2)専制共同体は、食糧生産のための灌漑、河川の整備、軍事的保護。都市の構築を請け負う。
 (3)全自然(動物、植物、無機物)は習俗として宗教的な尊崇の対象となる。
『共同幻想論』所収「全著作集のための序」で東洋学者ウィットフォーゲルを批判
「アジア的(段階)」のカテゴリーからはずれた日本における〈観念のアジア〉的専制を問題化。共同幻想のアジア的特性……天皇制国家の起源(神話)への遡行

・柄谷行人:
 アジア的な国家の場合、専制的な皇帝と官僚機構・常備軍の存在によって、支配者の共同体は消えるが、被支配者の共同体はそのまま残る。支配者(国家)は、共同体全体を上から支配するが、賦役貢納をのぞけば、国家が共同体に干渉することはなかった。
(『世界共和国へ』)
 「国家はあくまで、一つの共同体が他の共同体を征服し支配するときに生じる。その場合、支配共同体と被支配共同体の両面から、事態を見なければならない。専制国家、つまり専制君主が支配するような国家は、支配者共同体の内部で、共同体の互酬原理が失われるときに形成されるのである。その結果、絶対的な王権の下に官僚的なハイアラーキーが形成される。官僚は王に従属する。とはいえ、全体として、彼らは支配階級(身分)なのである。/こうして、一方で、支配者共同体が絶対的な王権と官僚体制に変容されるとともに、他方で、被支配共同体は農業共同体として再編される。これこそが、アジア的な社会構成体の特徴である」(「『世界共和国へ』に関するノート(5)専制国家」、『at』9号)。
 永続的なアジア的共同体なるものは虚構にすぎず、永続的なのは、官僚制という国家機構。

・征服の三つの形態
 (1)他の共同体を解体し、奴隷化する。
 (2)他の共同体に賦役貢納をさせるが、独立したままにしておく。宗主国と朝貢国の関係。必ずしも征服を伴わず、むしろ征服の危険を避けるために、共同体や国家の側から朝貢関係を積極的に申し込む場合がある。
 (3)多数の共同体を国家の内部に組み込んでしまうもの。

・A・Gフランク『リオリエント―アジア時代のグローバル・エコノミー』
 ウォーラーステインの「近代世界システム論」を西洋中心主義と批判。19世紀のはじめまで、世界経済がヨーロッパを中心にしていたなどということは、まったく想像の余地もないことで、資本主義(的発展)がヨーロッパないしは西洋によってもたらされたなどということも、さらに全くなかった。「ヨーロッパは、まずアジアという列車の席をひとつ買い、後には、列車全体を買い占めた」のであり、マルクスの「資本主義理論」の全体は、「アジア的生産様式」という仮定のお伽噺の上に立つヨーロッパ中心主義にしか支えられていないことによって」、無効とされる。
 常備軍、情報通信技術を含む官僚的支配体制を基盤としたアジア的「文明」(柄谷)

* 以上は、当日会場で配布したプリントの内容と多少異同があります。



3 柄谷行人の長池講義での追加コメント

■農本主義とアナキズムとの関係について

(1)日本の農本主義:
・石川三四郎以下、日本のアナキストは戦争中、権藤成卿を担いで転向した。戦後になっても天皇の元でのアナキズムなどと言い、転向意識はなかった。橘孝三郎はちょっと違っていて、元々はロシアの農本主義、トルストイ主義者。帰農し茨木で愛郷塾始める。政治運動に入り、5・15の被告になるなど右翼に見られるが、本来は白樺派。武者小路実篤(「新しい村」)など白樺派はみなこの系譜のアナキスト(高澤註:そこに内村鑑三経由のキリスト教がミックスされる)。
・農本主義者は交換様式C(商品交換)を認めないから、B(略奪と再配分)に行くかA(互酬制)に戻るしかない。D(アソシエーション)に行けない。資本主義社会、個人的契約社会を認め、そこを経ないとDには行かない。
・「社稷」は儒教と両立……アナキズムである。孔子は社稷であって反国家になる。
・日本:歴史的には儒教の中に革命性を見出してきた。そこに含まれているアナキズム、反国家的なもの――A(互酬制)が働いてくる。(高澤註:共同体への回帰と反近代思想)

(2)シュティルナーのアナキズム:
・フェライン(Verein連合)―アソシエーションは、唯一者(エゴイスト)だけに可能で、そうでなければ連帯できないとする。共同体を拒否しないとアソシエーションはできない。シュティルナーはその点でプルードンを批判した(註)。ただしプルードンは、ネーションの原理になるフラタルニテ(fraternite友愛)を拒否し、原理的にはそれを避けて経済システムをもってきた。シュティルナーは別の観点から、アソシエーションの前提となる唯一者(エゴイスト)をもってきた。

高澤註:宗教なく生きる定めにある人間にとって、なお道義の掟は永遠・絶対であるとしたプルードン(「秩序の創造」)に対し、シュティルナーは「古い宗教の抜け殻をやっとかなぐり捨てたその途端、またしても一つの宗教的殻をまとうことになる」と批判。人は意識的にエゴイストたることがなければ、真の「精神の自由」を認めることができないとして、「社会的義務」、「社会」という新たな「主人」をも否定(『唯一者とその所有』)。さらに、エゴイストを不可能ならしめるのが、「社会的自由主義」であるとした。なお、『ドイツ・イデオロギー』でマルクスが、シュティルナーを批判しているのは周知。共産主義社会の集団全体の「ルンペン」化を呼びかけたのがシュティルナーだったからだ。すべての者は、ルンペンであれ。所有は非個人的となり、社会に属するものであれというのが、シュティルナー流の究極のアナキズム。「プロレタリアートが、富と貧困のへだてを除かれるという、彼らの意図する「社会」を現実に打ち立てたあかつきには、プロレタリアはルンペンとなるのだ、けだし、そのとき彼は、ルンペンであることを良しとし、「ルンペン」という言葉が尊称に祭りあげられることになるやもしれぬからだ、ちょうど、革命が「市民」(ビユルガー)という言葉を尊称に押し上げたのと同様に。ルンペンは彼の理想であり、われわれすべてはルンペンとなるべし、というわけだ」(『唯一者とその所有(上)』、片岡啓治訳)
受講者のコメント1
ゴロー

 第1回目の講義で開設の主旨が語られたが、非常にシンプルな内容だ。思想家が必要と感じたときに公衆に日時を告知して、集まった聴衆に語りかける。講義の原点、という感想をもった。

第1回目の講義録を読むにあたって自分の参照した基本文献をまず2つ挙げておく。同時に理解を深めるにあたってキイワードになったと思われるものも2つ。

第1に『世界共和国へ』(岩波新書2006年4月刊)
第2にATJ発行の季刊誌「at」に連載中の「『世界共和国へ』に関するノート」
ちなみに、これまでに季刊「at」に連載された論文の各章に配されたタイトルは以下の通りである。

1、「at」5号
はじめに  評議会コミュニズムについて  ロールズの意義  資本主義的アナキスト  国際連邦 
2、 「at」6号
交換様式と社会構成体  未開社会と資本主義経済  交通=交換  物質代謝=交換  自然の開発=搾取  クラウジウスとマルクス
3、「at」7号
国家以前  国家以前の社会構成体  一般原理としての互酬  家族の問題  我と汝の世界  贈与と戦争
4、「at」8号
国家の起源
5、「at」9号
専制国家
6、「at」10号
帝国
7、「at」11号
  世界システム


キイワード

交換様式・・・『トランスクリティーク』の最終章において、互酬、収奪と再分配、商品交換、そしてアソシエーションという4種の交換様式という概念がやや唐突に提示されたように思われたのだったが、『世界共和国へ』の第1部ならびに「『世界共和国へ』に関するノート(2)」では簡潔にその理由が述べられている。まず、従来のマルクス主義者のように「経済的な構造」あるいは「生産様式」に基づいて考えるだけでは、アジア的な国家や封建的国家を十分分析することが不可能である。なぜならば〈国家が経済的な下部構造の上にある上部構造だというような見方は、近代資本主義国家以後にしか成立しません。それ以前においては、国家(政治)と経済とに、はっきりした区別はありえない〉のだから。 
さらには、マルクスの使った「生産様式」という概念には次のような含意があった。〈マルクスが「下部構造」を重視したのは、まず人間を自然との関係において見るという観点をとったから〉でありそのため〈人間が自然に働きかけて財を作り出す「生産」を重視した。さらに、彼は、生産が、人間と人間の関係を通してなされること、いいかえれば一定の生産関係のもとで生産がなされることを見た。それが生産様式という概念です。
本来、生産様式とは、生産が一定の交換や分配の形態でなされる形態を意味します。つまり、生産があって、そののちに交換・分配がなされるのではない。ところが「生産様式」という表現をとると、交換や分配が二次的なものとみなされてしまいます。〉(『世界共和国へ』第1部 交換様式)

社会構成体・・・同じく『トランスクリティーク』において、現代の先進国家社会を〈資本=ネーション=ステート〉すなわちそれぞれ異なる3種の交換様式がボロメオの環として結合した体系ととらえ、それを揚棄する困難を提示すると同時に、第4の交換様式であるアソシエーションに基づく社会への移行を解として打ち出したが、近年は三つの交換様式が接合して社会を構成し、どの交換様式が他を圧倒して主要になるかによってその社会の特色が決まると考えるようになっている。
参照:交換様式と社会構成体(「ノート(2)」)