第九回 長池講義 槌田劭講義レジュメ
2011/10/15
槌田 劭

原発と「科学」

  • 科学にたいする疑問

     私はもともと京都大学の工学部で金属物理学を専攻する科学者だった。
     しかし「専門家の世界」とか「素人の世界」というように分断された世界は不幸をもたらすとの確信をもった。そこで意識的に「科学者」というスタンスから発言することを辞めた。
     きっかけは、1973年に四国電力の伊方発電所に反対する住民裁判に証人として参加したこと。その裁判を通じて、日本社会の深刻な矛盾を目の当たりにした。同時に科学技術信仰に裏打ちされた工業文明の犯罪性に対する絶望を深めた。それが私が科学者を辞めることになった直接のきっかけ。

  • 部分的真理から共生の社会へ

     1973年に京都で「使い捨て時代を考える会」を、その中で、1975年に協同組合的運営を行う株式会社である「安全農産供給センター」を設立した。以来有機農産物・加工品などを会員内供給している。「使い捨て時代を考える会」の中では、生産者・消費者・流通が立場の違いをこえて、協同する努力を続けている。
     会の中に無農薬のみかん園を営んでいる人がいる。みかんの木の間に、クローバー、大根、にんじんなどを植えていた。無造作に見えるが、知恵と工夫がたくさんあった。その畑を見て、「共生」の社会をつくらなくてはならないと確信した。別のことばでいえば、自然に逆らわず、自然にもっともうまく適合する道の発見にこそ、科学的精神が生かされるべきである。部分だけを問題にする「科学」的手法を克服しなくてはならない。

  • 専門家の「無恥」と「無知」

     3月11日の東北関東大地震災が起こった時に、私は福井県の日本有機農業研究会全国大会に出席していた。真っ先に思ったのは「女川原発は大丈夫だろうか? 福島の原発は大丈夫だろうか?」ということだった。直後に津波で電源が喪失したと聞き、私の頭の中は真っ白になった。もう祈るしかない。なぜならば、このような状況になれば炉心溶融は避けられない。
     3・11の直後に、福島第一原発の原子炉が炉心溶融をしているという見解を私たちの研究会で出した。私がそれを言った時、研究会の中でも「まさか」という声があったが、新聞に出ている小さな記事のいくつかから予想すると必然的にそうなる。
     新聞では「燃料棒のところに水が入っているか、入っていないか」というバカバカしいことを報道していた。このバカバカしさを「専門家」と言われる人が誰も指摘しないということが「専門家」なるものの視野の狭さを露呈させている。彼らの解説能力がゼロなのか、隠蔽しているのか。そのどちらだったにせよ、彼らにこんな恐ろしい技術を扱う資格はない。
     あの発電所の中で何が起こっているのかなど、いまだに誰にも分かっていない。近づきたいと思っても怖くて近づけないのだから、みんな想像するしかない。その後に状況が少しは明らかになってきて、メルトダウン、メルトスルーが判明した。しかし、メルトスルーでこぼれ落ちた燃料が下にどのくらいたまっているのかについても分からない。水位計の数字が正しく働いている保証などどこにもない。圧力容器の中に水がどれくらい入っているかなんて予想をたてても仕方がない。
     いま大事なのは、第二のチェルノブイリ、第二の福島を起こさないようにするにはどうしたらいいのか。また、福島の人々の今後の生活をどのように考えることができるのか、という議論である。専門家と言われる人がどれほどインチキなものかは、事故後の一連の流れを見ても明白。彼らには「想定外」がものすごく多い。こうした「無知」で「無恥」な専門家たちの指示で動いてパニックになれば、分からないことだらけになって当然。私は「科学というのは罪科(つみとが)の学だ」と言っている。このような「科学(とががく)」はものごとをけっして全体で見ようとせず、専門領域の中で部分的真理ばかりを探究する。そして深刻な事故が起こると枝葉末節の議論に終始し、情報を隠蔽する。
     このことを知っただけでも、原発なんて残しておいたら大変なことになるということが分かる。だから、他の難しいことは実はどうでもいい。「そんな人たちに私たちの社会を任していていいのかどうか」ということ。そのことを素直に考えてみるだけで十分。

  • 有機農業運動は原発問題をどうとらえるのか

    ‘本有機農業研究会設立の趣旨
     1971年10月に、研究会は設立した。結成趣意書は、(1)農業の近代化は経済合理主義の見地から促進されてきたが、明るい希望や期待は持てない。(2)人間の健康や民族の存亡の観点が大切。(3)農薬や機械による傷病が農業において頻発。(4)農薬利用で生物死滅、環境破壊。(5)農地の地力低下──「公害とあいまって、遠からず人間生存の危機」と憂国の至情をもち、農法の転換の必要性を訴えた。そして、その転換には困難が伴うので、(6)消費者の食と健康への理解と食生活の健全化への自覚が必要と呼びかけた。
     この方向の上に、経済合理主義の視点からは見出せなかった将来性に対して、明るい希望を見出すために、産消提携の方針が確立した。立場の違い、利害の対立を越えて協力し合う有機農業提携のグループが各地に生まれた。慣行農法が一般化する農村で、無農薬・無化学肥料など不可能と白い眼を向けられる中で、初期の有機農業農家の苦労は大きく、消費者に喜ばれることを励みとした。その努力によって、有機農業技術の有効性が実証された。

    ⇒機農業の思想は共生・循環
     有機農業はいのちの立場ですすめられる。田畑では生物多様性、多種多様ないのちの共生による環境安定が、生産物の流通消費においては産消の協力互助による喜びと感謝で結ばれる共生関係が基本軸となった。そして、太陽の光を受けて、緑の活動による水と炭素の大循環が多様で豊かないのちの世界を育み、生産物を人間の食材として供し、人のいのちを支える。有機農業こそが最良、安定のエネルギー産業である。

    8業にみる反生命の無理と金銭利害
     原発は原子の破壊によって巨大なエネルギーを取り出す技術である。一方、いのちは常温の生物化学エネルギーで生きる。原子の安定性が基本である点で、原子力は生物原理の対極にある。放射線のエネルギーは大きく、細胞を損傷することが被曝の危険となる。
     原子力が巨大なエネルギーであるため、原発建設に巨額の金が動く。危険であるから過疎の農漁村に立地され、巨額の金で農村社会をずたずたにする。原発は有機農業の共生の原理の対極にある悪魔の科学技術である。

    ね機農業運動の質が問われている
     有機農業は共生の思想を基本とするが、実態はどうであったのか。消費者が食の安全を求めるのは当然である。しかし、安全だけを求めるのでよいのだろうか。
     原発事故で大量の放射能が拡散した。多年土を大事にしてきた有機農業農家の苦悩の大きさに心は痛む。福島の農業を壊滅させてよいのか。課題は重い。
     放射能は微量でも有害である。微量汚染での農産物も健康を考えると不安である。しかし、「絶対いや」だけでよいのか。自分の子の健康を願うのは当然であるが、自分の子の幸せだけを考えることで、その子の幸せを保証できるのだろうか。人は共生して生きる。共感し、励ましあうことで幸せな社会が実現する。放射能は危険であるが、放射能だけが問題なのだろうか。
     放射能汚染の現実に、加害者、東電と原子力村への怒りと憤りをもって、脱原発を。そして、福島の農民に心を寄せ、年寄りは福島の農産物を食べて、未来の子や孫を守りたいと思う。


(この講演は「原発と『科学』──「部分的真理」の無恥から共生の世界へ」と題して、『atプラス』10号に掲載されています)