第八回 長池講義 丸川講義(資料メモ)
ヘーゲル『歴史哲学講義』第一部東洋世界第一篇中国

 中国とともに歴史が始まります。…すでに見たように、中国が歴史に登場したときのありさまは、いまとかわらない。というのも、客観的な存在とそのものでの主観的な運動との対立が欠けているために、そこではいかなる変化も生じようがなく、わたしたちが歴史と名づけるもののかわりに、永遠に同じものが再現するからです。
  • 記録としての「歴史」と、発展としての「歴史」


魯迅『阿Q正伝』(1920〜21年)


〈勝利の記録〉
 阿Qは「むかしは偉かった」し、見聞は広いし、しかも「働きがいい」から、ほんとは「完全な人間」のはずだが、惜しいかな体質的にやや欠点があった。最大の悩みの種は、頭に数ヶ所、いつからともなく、疥癬のあとが禿げになっていることである。…
 だが彼は、敗北をたちまち勝利に変えることができた。かれは右手をふりあげて、自分の横っつらを力いっぱいつづけざまに殴った。飛び上がるよう痛かった。だが殴ったあとは気が晴れて、殴ったのは自分だが、殴られたのは別の自分のような気がした。

  • 国としての中国それ自身の寓話、あるいは中国人の寓話であろう、と思われる。
  • 当時は、自分が阿Qのモデルではないか、と慌てた人物が多かった。


〈大団円〉
 すると長衣のひとりが、紙と筆を持って阿Qのところへ来て、筆をかれの手に押しつけた。そのときの阿Qの驚きは、文字どおり「魂が消えた」に等しかった。なにしろかれの手が筆と関係を持つのは、これが最初だったから。

  • 名が書けない阿Qは国民たる存在ではないが、しかし革命に参加した。阿Qの処刑は、革命(国民形成)の「流産」を物語る。
  • 手と筆との関係においてそれが職業となる士大夫(知識人)階級という存在が、ここのシーンを起点にして浮かび上がる。
  • 文字(文化)をどう自分のものにするかという課題は中国において大きく、政治に関わることになる。その大きなメルクマールとしての「プロレタリア文化大革命」がある。


孫文「党規約改正の説明(上海の演説)」(1920年)

 中華革命党には幾つか加入の条件があって、当時の旧同盟会の人々は好ましく思わず、多くは反対に回り、ついにそれぞれ我が道を行くことになり、加入しなかった。実際のところ、彼らはよく分かっていなかった。何故なら党と国家は別物なのだということ、それをはっきり弁えていなかった。党が最も重視するのは主義である。つまり、かならずその主義を実行するため、人を重視せざるを得ないのである。元々旧国家の政治は人重視であったが、モダンな新国家は、法重視である。では法はどこから来るのか? われわれ人が造るものだ。だから、党の作用において、人重視とならざるを得ないのだ。党は元より人治で行く、法治ではない。われわれは法治国家を作ろうとしており、それはわれわれの党人の心にかかっている。党が団結し発展するのには二つの作用が必要である。一つは感情の作用であり、もう一つは主義の作用である。法治の作用、その効果は極めて少ない。この道理を理解すれば、なぜまさに私がそういった条件を付け加えたかが分かるだろう。たとえば、私の革命の信条への服従を要求することがあって、みな違うと感じた。しかし私がそういった条件を出したことにも理由があるのだ。

  • ここでの孫文の「団結」の文字は、内戦を通じて、共産党優位の文脈に繋がっていく。つまり、毛沢東の「整頓」活動に、また「整風」活動に最も純化されて反映するのである。
  • 「法治国家が党人の心にかかっている」とは、よくも悪しくも現代中国の政治構造である。


魯迅「『阿Q正伝』の成立ち」(1926年)


 こうして、一週、一週切り抜けていくうちに、さて、阿Qは革命党になるのかという問題にぶちあたった。私の考えでは、中国に革命が起こらなければ阿Qも革命党にならず、革命が起これば革命党になるだろう。わが阿Qの運命はこれしきのものでしかなく、人格もおそらく分裂などしていない。民国元年はすでに過ぎ去って、そのひそみにならうこともかなわないが、今後もし改革があれば、またぞろ、阿Qのような革命党が出現するに違いない。私も人々の言うように、過去のある一時期を書いたにすぎないことを願ってはいるが、私が見たものは、現代の前身などではなく、現代以後、ひょっとしたら、二、三十年先のことかもしれない。

  • ここにおいて「党」という問題が前景化されている。「革命」と「党」の必然的かつ、性急なる結びつきである。ちなみに国民党も「革命」党だった。
  • この翌二七年の中国で起こったことは、まさに中国人(特に知識人)が、どの「党」につくか、という問題を突きつけた。
  • 「阿Qのような革命党」とは何か?
    国民党…権棒術と軍事一点ばり→国民不在
    共産党…コミンテルンの指導に服していたこと、無像無像の人間を受け入れた→国民不在?


魯迅「死地」(1926年)

 しかし、さまざまな論評には、銃や剣よりもさらに心胆を震え上がらせる恐ろしいものがあったと思う。それは数人の論客が、学生たちはもともと自ら死地に足を踏み入れ、死を求めるようなことをすべきではなかった、としている点である。もし、徒手の請願が死を求めることだとするのなら、この国の政府の門前は死地だということになる。…今のところ、私にはまだ中国人の大多数がどういう意見をもっているのかわからない。もしかりに、やはり、このようだとしたら、執政府の前のみならず、全中国が一つとして死地ではないところはなくなるだろう。

  • ここでの学生デモには共産党員の指導が介在していたが、そのことが弾圧の口実ともなった。
  • 『阿Q正伝』との対比で言えば、ここでは近代の「トータルな統治」が例外なく個人(名)を捕捉し死をもたらすことにできる、そのような社会の包摂が始まった時代の到来を意味する。かつて阿Qは名を持たなかった、だから隣の県へ逃げてしまえば、それで良かったのだ。この後、魯迅(知識人たち)はずっと追われる身となる。(北京→アモイ→広東→上海)


魯迅「深夜に記す」(1936年)

 死刑囚に、処刑前、観衆に向かって発言を許したのは、「成功した皇帝や王公」の恩恵であって、また力を持っているという自信の証拠でもあった。それ故、大胆にも死刑囚を放任してしゃべらせ、死に臨む前に自己誇示の陶酔を得させ、人々にも彼の最期をわからせたのである。わたしは、昔は「残酷」とばかり思っていたが、適切な判断ではなかった。そのなかには、わずかながら恩恵を含んでいた。わたしは、友人や、学生の死を思うたびに、もし日時を知らず、場所を知らず、死に方を知らないと、知っているときよりもさらに悲しく、不安になった。それから、あそこを推測した。暗い部屋の中で、幾人かの屠殺者の手にかかって生命を失うのは、衆人の面前で死ぬよりもきっと寂しいであろう。

  • 「寂しい(寂漠)」死というものは、究極の「脱政治」としての密室の死を表示するだろう。
  • この「寂漠」には中国における政治の闇も含まれている。弟子である柔石の死は、租界警察の逮捕から国民党政権の警備総司令部による処刑を経るが、突端となる引き金として、共産党内部の暗闘による「密告」の可能性も高いものと見られている。魯迅はそのことを知っていた可能性が高いのである。その意味も含めて「寂漠」がある。
  • 一方、この時期、共産党は、その指導部を上海から辺境地区(農村)へと移すことになる。魯迅の移動が、東側の都市部の南北の移動であるのに対して、共産党の移動は、中心から周辺になろう。


毛沢東「中国各社会階層の分析」(1926年)


 われわれの敵はだれか。われわれの友はだれか。この問題は革命のいちばん重要な問題である。
  • 革命活動において、はじめて階級が分析される。この時点では、中農を信用していなかった。


毛沢東「農村の階級をいかに分析するか」(1933年)

 中農の多くは土地を所有している。中農の一部は、土地を一部所有するだけで、ほかの一部の土地は借り入れている。中農の一部は、土地を所有せず、土地は全部借り受けている。中農はみな自分でかなりの生産用具をもっている。中農の生産の源泉は、全部が自分の労働によるか、あるいは主として自分の労働による。一般に中農は他人を搾取せず、多くの中農は、わずかながら他人から小作料、金利などによる搾取をうけている。しかし、一般に中農は労働力を売らない。他の一部の中農(富裕中農)は、わずかながら他人を搾取しているが、それは恒常的なものでも、主要なものでもない。

  • 中農という階級の発見、そして地主を生かして自作農にすること。それによって有機的な農村全体の動員が可能となる。毛は、農村(基層社会)から大衆動員を獲得し得る黄金比率を発見した。


毛沢東「知識人を大量に吸収せよ」(1939年)


 三年このかた、わが党とわが軍は知識人を吸収する面で、すでに相当な努力をはらい、数多くの革命的知識人を党に、軍隊に、政府活動に、文化活動と民衆運動に参加させて、統一戦線を発展させてきたが、これは大きな成果である。しかし、軍隊のなかの多くの幹部は、まだ知識人の重要性に目がむかず、知識人をおそれ、はては排斥する気持ちさえもっている。われわれの多くの学校は、おもいきって大衆の青年学生をうけいれるまでになっていない。多くの地方の党組織は、まだ知識人を入党させることをのぞんでいない。このような現象がおこるのは、革命事業における知識人の重要性を理解せず、植民地、半植民地国の知識人と資本主義の知識人とのちがいを理解せず、地主・ブルジョア階級に奉仕する知識人と労農階級に奉仕する知識人とのちがいを理解せず、ブルジョア政党がやっきになってわれわれと知識人を争奪しており、日本帝国主義もさまざまな方法で中国の知識人を買収し、麻痺させていることの重大性を理解していないからであり

  • 根拠地が農村・辺境地区に広がった中国革命(共産党)の進行においては、一瞬で終わる都市攻略ではなく、広大な地域における持続的な宣伝=教育活動が重要になる。そこで、むしろ知識人の活躍する時空が広がっている、という状況認識である。


毛沢東「文芸講話」(1942年)


 わたしは、知識人の着物ならきれいだと考え、他人のものでも着られるのに、労働者、農民の着物はきたないと考えて、着る気になれなかった。革命をやり、労働者、農民や革命戦士たちといっしょになってから、わたしはしだいにかれらを熟知するようになり、かれらもまたしだいにわたしを理解するようになった。まさにそのときから、わたしは、ブルジョア学校で教えられた、あのブルジョア的、小ブルジョア的な感情を根本的にあらためたのである。そのときになって、まだ改造されていない知識人を労働者、農民とくらべてみると、知識人はきれいでなく、もっときれいなのはやはり労働者、農民であり、たとえ、かれの手がまっ黒で、足に牛の糞がついていても、やはりブルジョア階級や小ブルジョア階級の知識人よりきれいだとおもうようになった。

  • 結局これが意図するのは、知識人党員に対して、農村出身幹部の言うことを聞いてくれ、という政治的決断である。
  • ここでの毛沢東の農民観は、まさに魯迅『阿Q正伝』の「大団円」と対位法を形成するように読める。長衣⇔阿Q、都市から来た知識人⇔中農幹部


毛沢東「5・7指示」(1966年)


 世界大戦が発生していないという条件のもとにありさえすれば、軍隊は大きな学校であるべきです。たとえ、第三次世界大戦という条件のもとにあったとしても、このような大きな学校になることができ、戦争をするほかにも、各種の工作をすることができるでしょう。第二次世界大戦の八年間、各抗日根拠地で、我々はそのように、やってきたではありませんか? この大きな学校は、政治を学び、軍事を学び、文化(文字)を学びます。さらに、農業・副農業生産に従事することができます。若干の中小企業を設立して、自己の必要とする若干の製品、および国家と等価交換する製品を生産することができます。また、大衆工作に従事し、工場・農村の社会主義教育、四清運動〔政治、経済、思想、組織の歪みを正す運動〕に従事することができます。

  • 純粋な近代的国防主義者ではないことが分かる。実は、対外戦争を「革命」のための背景の一つとしているようにも読める。
  • 世界史のパリコミューンの「経験」と、現代中国史の根拠地の「経験」を重ねている。自分たちのかつての革命根拠地がパリコミューンのようには潰されなかったという自負が、この発想を生んだと言える。


銭理群「特権階層の思潮」『毛沢東の時代/ポスト毛沢東の時代』(出版予定)


 これは、文革中の造反派思潮における重要な発展であった。最初にブルジョア反動路線を批判する段階で、造反派は主要には毛沢東の呼びかけに応え、行動をもって各級党組織を攻撃した。しかし各級党組織が基本的に麻痺して以降、造反派の中で本当に思想を求めていた一部分は、新たな焦りを抱えるようになった。次に何をすれば? そこで、文革の本質とは何であるのか? 文革は結局どのような目的を達するものなのか? と考え始めた。すなわち、彼らは毛沢東の呼びかけで造反した応答者だけに安んじるのではなく、自分自身の文革の理解を望んだのである。そこで文革の目的と本質を思考することは、実際に文革が直面した「中国問題」を思考することとなった。つまり、「中国とは結局どのような問題、矛盾と危機を有しているのか」また「中国はどこへ行くのか」という問題である。一方、このようなさらに深い位相の問題を考えるということは、造反派が文革の主導権を握ったということを意味する。このように、彼らもまた情熱と衝動によって造反し、そして理性的思考に向かったように、自覚的な造反者となろうとしたのである。

  • 文革は、知識人にこのような問いを孕ませた。そしてこの問いは、受け継がれている。


小平『南巡講話』「経験を総括し、人材を起用しよう」(1992年)

 社会主義の道を歩むのは、ともに豊かになることを逐次実現するためである。ともに豊かになる構想は次のようなものである。つまり、条件を揃えている一部の地区が先に発展し、他の一部の地区の発展がやや遅く、先に発展した地区があとから発展する地区の発展を助けて、最後にはともかく豊かになるということである。もし富めるものがますます富み、貧しいものがますます貧しくなれば、両極分解が生じるだろう。社会主義制度は両極分解をさけるべきであり、またそれが可能である。解決方法の一つは、先に豊かになった地区が利潤と税金を多く納めて貧困地区の発展を支持することである。もちろんそれを急ぎすぎたら、失敗してしまう。いまは発展地区の活力を弱めてはならず、「大釜のメシ(悪平等)」を奨励してもならない。

  • 自由主義の解釈、そして新左派の解釈の違いは、ここでの強調点の違いであり、両者の発想はともに、小平の手の中にあると言えるかもしれない。
  • いずれにせよ、この「発展」をコントロールしているのは中共であり、そのコントロールの権力は「革命」によって打ち立てられたものである。


(南巡講話) 我々は三中総(一九八四年)以来の路線、方針、政策を推し進めるのに際して、強制はせず、運動もやらない。みんなは政策に参加したければ参加する。このようにして、だんだん多くの人民がついてきた。論争をしないというのはわたしの発明だ。論争をしないのは、計画を遂行する時間を少しでも多く得るためである。論争をはじめるとややこしくなり、時間をとられ何もできなくなる。論争しないで大胆に政策を試み、大胆に突き進む。農村の改革はこのようにやったのであり、都市の改革もこのようにやるべきである。
 いま、我々に影響を与えているものには、極右派のものもあれば極左派のものもある。しかし、根の深いのはやはり極左派のものだ。

  • ここにある極左とは、「従来の公有制」を保守する側である。
  • ここには、都市改革の失敗としての第二次天安門事件の記憶が行間にある。


(南巡講話) 世界でマルクス主義に賛成する人が増えるものと私は確信している。それはマルクス主義が科学であるからだ。マルクス主義は史的唯物論を運用して、人類社会の発展の法則を明らかにしたものだ。…一部の国に重大な曲折が現れ、社会主義が弱体化したように見えても、人民は試練に耐え、その中から教訓を汲み取り、社会主義がいっそう健全な方向に発展するように促すだろう。

  • F・フクヤマの「歴史の終わり」論への一つの返答であるのか?


劉暁波「社会を変えて政権を変える」(2006年)


 同時に、ソ連・東欧の共産全体主義陣営が雪崩をうった後、世界的な自由化民主化の大勢は日増しに強くなり、主流国家の人権外交と国際人権組織の圧力により、中共現政権もまた国内統治と対外対応において、「人権の成果」と「民主の成果」を作らねばならなくなった。
 …自由制度がどうして独裁制度に取って代るのか、冷戦の終わりがどうして歴史の終焉と見做されるのか、それは自由制度によって人の尊厳が認知され尊重されるからであり、独裁によっては人の尊厳が承認されず、掃き捨てられるからだ。
 …自由のない独裁社会において、しばらくは政権の独裁性質を変えることが難しい前提にあって、私が理解するところの、下から上へと中国社会を動かす転形期の民間社会の道筋は以下のようなものである。

  • かつてのF・フクヤマの「歴史の終わり」論を踏襲しているのだが、もちろんこのような考え方をしている中国人もかなりいる。
  • 興味深いことに、劉は文革全面否定派であるが、彼の文体や発想には、色濃く文革の影響が見て取れるところもある。


劉暁波など、『〇八憲章』(我々の基本的主張十九条の中の第十四条、十五条)


(十四)財産の保護:私有財産権を確立し保護する。自由で開かれた市場経済制度を行い、創業の自由を保障し、行政による独占を排除する。最高民意機関が責任を有する。国有資産管理委員会を設立し、合法的に秩序立って財産権改革を進め、財産権の帰属と責任者を明確にする。新土地運動を展開し、土地の私有化を推進し、国民とりわけ農民の土地所有権を確実に保障する。

(十五)財税改革:財政民主主義を確立し納税者の権利を保障する。権限と責任の明確な公共財政制度 の枠組みと運営メカニズムを構築し、各級政府の合理的な財政分権体系を構築する。税制の大改革を行い、税率を低減し、税制を簡素化し、税負担を公平化する。公共選択や民意機関の決議を経ずに、行政部門は増税・新規課税を行ってはならない。財産権改革を通じて、多元的市場主体と競争メカニズムを導入し、金融参入の敷居を下げ、民間金融の発展に条件を提供し、金融システムの活力を充分に発揮させる。

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  • 2013/04/09 4:24 PM
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