第三回長池講義 柄谷講義要綱
2009/3/28
柄谷行人

第三回長池講義 要綱


 未開社会には、贈与の義務あるいは互酬的な諸制度がある。それは共同体の形成と維持を目的とするものであることはすでに示した。しかし、それが、なぜいかにして共同体の「至上命令」として出てくるのか。この疑問に正面から挑んだのは、フロイトだけである(『トーテムとタブー』(1912年))。私の考えでは、フロイトが考えたのはトーテミズムの起源というよりもむしろ、未開社会における「兄弟同盟」、つまり、「兄弟同盟のすべての構成員に平等の権利を認め、彼らのあいだにおける暴力的な競争への傾向を阻止する掟」がいかにして形成されたのか、ということである。


 フロイトはその原因を息子たちによる「原父殺し」という出来事に見いだそうとした。むろん、これはエディプス・コンプレクスという精神分析の概念を人類史に適用するものである。しかし、彼は当時の学者の主要な意見を参照し、特に、ダーウィン、アトキンス、ロバートソン・スミスらの理論を借用している。それらがどのようなものかを、フロイト自身の言葉で示そう。

 ダーウィンからは、人類が原初、小さな群族を作って生活していて、その群族のそれぞれが比較的年齢の高い男性原人の暴力的支配下にあり、彼はすべての女を独占し、若い男性原人たちを彼の息子たちも含めて鎮圧し、懲罰を加え、あるいは殺害して、排除してしまった、との仮説を借用した。アトキンソンからは、以上のような記述に続くかたちで、この父権制が、父に抗して団結し、父を圧倒し、これを殺害して皆で喰い尽くしてしまった息子たちの謀叛によって終焉に至った、との仮説を借用した。そして、さらに私は、ロバートソン・スミスのトーテム理論に従って、父殺害ののち、父のものであった群族がトーテミズム的兄弟同盟のものになったと考えた。
 勝ち誇った兄弟たちは、実のところ女たちが欲しくて父を打ち殺したのではあるが、互いに平和に生活するために女たちに手を出すのを断念し、族外婚の掟を自分たちに課した。父の権力は打ち砕かれ、家族は母権に沿って組織化された。しかし、父に対する息子たちの両価的な感情の構えは、その後のさらなる発展の全経過に力を及ぼし続けた。父の代わりに特定の動物がトーテムとして据え置かれた。この動物は父祖であり、守護霊であるとされ、傷つけたり殺したりしてはならぬものとされたが、しかし年に一度、男性原人たちの共同体構成員全員が饗宴を開くために集まり、ふだんは崇拝されていたトーテム動物は饗宴のなかでずたずたに引き裂かれ、彼ら全員によって喰い尽くされた。この饗宴への参加を拒むことは、誰であっても許されなかった。これは父殺害の厳粛な反復だったのであり、この反復とともに社会秩序も道徳律も宗教も生まれたのである。(『モーゼという男と一神教』p165、「フロイト全集」22巻、岩波書店)

 
 今日の人類学者はこのような理論を斥けている。古代に「原父」のようなものは存在しない。実際、フロイトがいうような原父はゴリラ社会の雄に似たものというより、むしろ、専制的な王権国家が成立したのちの王や家父長の姿を、氏族社会以前に投射したものだというべきである。だが、そのようにいうことで、フロイトがいう「原父殺し」の意義が消え去ることはない。

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 くりかえすと、フロイトは、氏族社会の「兄弟同盟」システムがなぜいかにして維持されているのかを問うたのである。私の考えでは、それは、氏族社会が国家に転化しないのはなぜかを問うことにほかならない。理由は、国家=専制的な父の生成をたえず阻止するシステムがあるからだ。いいかえれば、氏族社会が「原父殺し」をたえず反復しているからだ。それは、トーテムにかぎらず、さまざまな互酬性の実践において反復されている。国家の生成を妨げるかぎりで、戦争もその一つである。つまり、「原父殺し」は経験的に存在しないにもかかわらず、互酬性によって作られる構造を支えているのである。それは事後的に遡及的に見いだされる原因である。ゆえに、「原父殺し」という考えは、太古にそのような原父はいないからといって斥けられるものではない。


 私の考えでは、独占的・専制的であったのは、原父ではなく、共同体所有そのものである。具体的にいうと、漂泊的小バンドでは、すべての生産物が平等に再分配された。定住ないし準定住の結果、バンドの間で恒常的に交通する事態が生じたとき、そのような共同体所有は部分的に否定されなければならなくなる。共同体所有を断念して他の共同体に贈与するのである。これはフロイトがいう「原父殺し」である。しかし、贈与されたものは、他者に対する「力」をもつ。それが他者の敵意を抑え込む。こうして、贈与の互酬によって、環節的・成層的な共同体が形成されるようになる。フロイトがいう「兄弟同盟」は、そのようなものである。
 氏族社会に存する「平等主義」は強力である。それは富や権力の偏在や格差を許さない。それは強迫的なものである。では、なぜそうなのか。これは、各人の嫉妬などから説明することはできないし、復古主義的な願望から説明することもできない。フロイトは、平等主義のこの強迫性を、「抑圧されたものの回帰」から説明した。つまり、一度抑圧され忘却されたものが回帰してくるとき、それはたんなる想起ではなく、強迫的なものとなるのだ。


 われわれは「抑圧されたものの回帰」の例を、氏族社会よりもむしろ、氏族社会が国家と貨幣経済によって完全に解体され忘却された後に見出すことができる。それは普遍宗教である。いうまでもなく、それについても、フロイトは『モーゼと一神教』で論じている。フロイトの仮説の中で重要なのは、モーゼに率いられてエジプトを脱出し砂漠を放浪した人々が緑豊かなカナンに入る手前で、モーゼを殺したというものである。モーゼが砂漠にとどまることを命じたからだ。だが、殺されたモーゼは、カナンの文明の発展の中で、預言者を通して「モーゼの神」として戻ってくる、とフロイトは考えた。いうまでもなく、これは『トーテムとタブー』で書かれた「原父殺し」の再現である。しかし、実際には、フロイトは、むしろ普遍宗教の問題から、原始時代の「原父殺し」に遡行したのである。


 フロイトがいうことは、ユダヤ教やキリスト教に限定されるものではない。普遍宗教はそれぞれ各地の世界帝国の下で、「抑圧されたものの回帰」として出現したのである。


 交換様式という観点からいえば、普遍宗教は交換様式BとCが支配的である世界帝国の下で、それによって抑圧された交換様式Aが高次の次元で回帰したもの、すなわち、交換様式Dである。それは現実には存在しないものである。とはいえ、人々の恣意的な願望や空想として出てくるのではない。その逆に、人を強いる「力」、倫理的な至上命令として出てくるのだ。