第四回長池講義 高澤講義レジュメ
2009/3/28
高澤秀次

日本芸能史(2)『太平記』の時代

★北条政権末期、後醍醐天皇の治世から、足利尊氏の死を挟み、足利義満が政務を嗣ぎ(細川頼之が管領に就任)戦乱の時代がいったん終息するまでの50年間(応仁の乱以前)
中世の真ん中に位置するこの南北朝時代は、「日本の歴史を二分し、古代と近世の境目ともなる変革期であった」(林屋辰三郎『内乱のなかの貴族』)
『太平記』の時代に重なる南北朝時代はまた、東国武士団の西国進出を契機に、日本史上空前の東西交通(戦乱を通じた)が活発化した時代であり、「日本史上最初のイデオロギー時代」(司馬遼太郎)でもあった。

後醍醐の「親政」と南朝のイデオローグ北畠親房に与えた「宋学」の影響
「宋代の学問世界は、訓古をすてきったわけではないにせよ、中国の思想史上、最初に出現する観念論哲学の流行期である。朱子学の成立にいたってそれが大きく完成し、やがて宋が北方の異民族国家である金に圧迫される(南宋への版図縮小)におよんでこれがイデオロギーになってゆく」(司馬「太平記とその影響」)……尊皇攘夷論の理論モデル
それが北朝に対し劣勢に立たされた南朝の正統論の根拠となる。
南北両朝のイデオロギー対立:「当時は宋学が輸入されて大覚寺統の人々の関心を惹き、尊治親王(後醍醐天皇)などもその中心にあったが、自明院統では花園天皇も含めて経書を古注をもって解釈されたので、理性の学(理学)ともいわれた宋学とは相容れないところがあった」(林屋辰三郎『内乱のなかの貴族』)
cf.この花園天皇は後醍醐に譲位を迫られた天皇で、「北朝思想」の結晶ともいうべき「誡太子書」(「太子を誡める書」、山本七平はこの書を北畠親房の『神皇正統記』に対して、北朝の「正統記」と呼ぶ)を著している。これは花園院が後醍醐の皇太子・量仁親王(北朝第一代・光厳天皇)に自重を促した書で、朝廷が武力で政権を保持するような後醍醐的「親政」を暗に批判、宋学に対して「詩書礼楽」「経書の精神」による去私の治世を諭す。
山本七平は、足利尊氏が擁立したこの光厳天皇を北朝すなわち「後期天皇制」の祖とする。

語り物としての『太平記』
『平家物語』から『太平記』へ……特定の英雄像を描く『平家物語』と、「群像形成の語り物」(角川源義)としての『太平記』
盲目の語りから、「目明き」の語りへの過渡期(柳田國男)
兵藤裕己「婆紗羅と悪党―小島法師をめぐって」(「國文學」第36巻2号)
随所にある本文への注記:「引き」「乱」(対句仕立ての拍節的旋律)「二重」(音域の高低を指示した詠唱的な旋律)「三重」「四重」などの曲節、注記なしの部分が地語り
「談義」(半僧半俗のヒジリの行う話芸・語り芸)/物語の席で「読」まれた『太平記』
「物語僧」(禅宗寺に寄宿した遍歴の禅僧)の太平記講釈(ヨミ)
「髪をそらずして烏帽子をき、座禅の床を忘れて南北のちまたに佐々良すり……東西の路に狂言す」(『天狗草子』)
『太平記』の複数の作者の一人「小島法師」も、「凡そ卑賤の器たりといへども、名匠の聞こえあり」と言われた物語僧

太平記の楠木正成像……「下層の宗教民・芸能民の伝承的関与をうかがわせる」
正成合戦を談義/物語する一群の徒が存在した。  cf.司馬遼太郎「太平記とその影響」
正成の兵法伝承……いわゆる忍法・忍術が修験山伏の特異な修行形態から派生したことは周知、戦国末期に活躍した甲賀衆・伊賀者はともに正成の血脈を主張。彼らの出自が下層の宗教民、毛坊主の類いにあったとすれば(鈴鹿山地一帯を縄張りとした山伏・山立の一類か)、その伝承する兵法が「下賤の職」と卑賤視されたのも当然

太平記を講義/物語する異形の「あぶれ者」たちが、自らの境遇を楠氏や名和氏・児島氏の末路にかさね合わせた。そうした数多くの有名・無名の語り手たちの一人に、老残の高徳入道=児島高徳(南朝方の備前の武将)をカタル法師形の「卑賤の器」も存在しただろう。語り手と語られる作中人物とがだぶってくるのは、日本の語り芸の伝統。幕府体制への執拗な反抗を企てる児島高徳(あるいは楠・名和の一族)と、それを仕方・声色をまじえてカタル者たちとは、語り(騙り)芸の世界を媒介にして系譜的、系図的にも繋がる。

参照:兵藤『太平記〈よみ〉の可能性―歴史という物語』(講談社選書メチエ)
   新田一郎『太平記の時代』(日本の歴史11,講談社)
   『中村直勝著作集第三巻――南北朝の研究』(淡交社)
   森茂暁『南朝全史―大覚寺統から後南朝へ』(講談社選書メチエ)
   山本七平『日本の歴史(上・下)』(B選書、ビジネス社)

★天皇制の分岐点:北条高時が後醍醐に対抗して担いだ光厳天皇(北朝第一代)、足利尊氏が擁立したその弟・光明天皇(北朝第二代)は武家(政権)のための天皇、古代的な王権(後醍醐はその復興企てる)とは断絶。北朝=「後期天皇制」cf.新井白石『読史余論』

南朝の吉野への逃走(後南朝の延命)と「悪党」の活躍
海津一朗『神風と悪党の世紀』(講談社現代新書)によると、南北朝時代の特徴として、蒙古襲来を機に「神国観念」の高まりを見せるなか、地域民衆の既得権が著しく侵害され、「悪党」の語に象徴されるような民衆への差別と統制強まる。南朝のシンボル後醍醐を支えた河内の土豪・楠正成はそうした「悪党」の典型。『太平記』のような物語のヒーローにはなり得ても、『神皇正統記』のような南朝正統論の「正史」では無視。
楠ら「悪党」は、幕府からは冷遇されていたものの、支配階級に属した土豪で、鎌倉末期からは寺社に敵対する「国土の怨敵」といった意味から、国家に反逆する倒幕勢力そのものを表すまでになった。    cf.中上健次の野外劇『かなかぬち』楠正成=韓鍛冶

林屋辰三郎は、当時の「悪党蜂起」について、徴税力を失った荘園領主にかわって年貢徴収を請け負った地頭領主(在庁官人)の搾取に対し、農民の側から年貢を自主的に請け負う地下請けが台頭、こうした農民の団結、搾取に対する抵抗が、地頭や幕府にとって「悪党」的振る舞いとみなされるようになったとする。
「彼らは公家政権の再現を期待したのではなく、むしろ公家も武家も否定した真に彼らのための彼らによる政権を希望したであろう。しかしそれがもとよりかなえられぬ性質のものであってみれば、公家側の反幕府戦線のなかで行動するようになってくるであろう」(『南北朝』)
「南北朝時代の戦乱を通じて、常に地方の「郷民」がその背後に存することを、私は注意したい、大和天河郷・十津川郷・川上郷の郷民が賀名生(あのう)皇居を警衛した事実、紀伊花園郷の郷民が阿瀬河城の行在(あんざい)に馳参じた事実等を想起すれば、おのずからこのことが諒解せられるであろう。この郷民は南北朝時代のころから新しい自治組織をもって発展してきたもので、単に地方郷内における個々の住民ではなく、「郷民」が一箇の有機的団結をなし、「郷民蜂起」などと呼ばれるように郷全体が一丸となって、郷民の共同利益とそれを冒すものに対して積極的な行動を示したものに他ならぬ。彼ら郷民は各自の郷土が戦禍を蒙ることを極度に怖れ、多くは在地において自存自衛の道を講じたのである」(『内乱のなかの貴族』)
「南北朝半世紀の歴史の進歩は、社会の全面に、たとえ悪党といわれ下剋上といわれようとも、郷村をよりどころとして立ち上がる民衆の、根強いうごきを記録していたからである。それは守護領国支配の進展に対して、郷村平和を守る郷民たちの、生命をかけた抵抗に他ならなかった」(同)
日本的マルチチュード(雑民)としての「悪党」の反制度性と天皇制への回収
「蜂起」と「一揆」……後の山城「国一揆」などの共和制的アソシエーション(下剋上の民衆的形態としての)と共同体。  cf「.一向一揆」と雑賀鉄砲衆の連合VS.織田信長
参照:石母田正『中世的世界の形成』(「黒田悪党」、岩波文庫)
   網野善彦『異形の王権』(平凡社)
       『日本中世の非農業民と天皇』(岩波書店)

★南朝(吉野朝)は何故、延命できたのか
角川源義『語り物文芸の発生』
「吉野朝の政権が、とにかく長きにわたって保持できた原因の一つに、吉野山の修験者はもちろんのこと、熊野修験者の協力があったことを挙げねばならぬ。しかし、最も大きな原因は熊野水軍(その背後に伊勢・熊野の通商・造船を司る北畠氏の勢力)の全面的な協力が経済的なバックアップをなしていることを考えねば、その謎を解くことができない」
『太平記』は尊皇派の修験者の尊皇精神をもとにして成立
「小島法師は特定な個人の名というよりも、備前児島の新熊野権現によっていた山伏の一人と考えられる」
語り物を語っていた盲目法師と、児島の新熊野権現を拠りどころとする修験者との交流
『太平記』の成立/山伏と時衆(宗)……熊野信仰と時衆(宗)教団の深い関係
山伏と遊行僧は、霊山聖地をめぐりつつ日本のくまぐまを廻国している点で共通
時衆の念仏聖が従軍僧のように戦さの場にあった例、念仏聖の悲劇の伝承があまたの挿話とともに『太平記』を成立させているのは、この伝承の管理者に時衆教団があったから。

因みに足利尊氏によって天竜寺が造営され、後醍醐天皇の7周忌に当たってその供養も行われた際に(尊氏の天皇に対する報恩謝徳を表す)、開山の夢窓国師疎石が上皇・天皇の臨幸を仰いだ事に山門(延暦寺)側が反発。この頃から著しい進出を示した禅宗、念仏宗の盛運に対して北朝系の公家・洞院公賢(というんきんかた)は、「禅念両宗、洛中に充満し、異類異形、路頭を徘徊す」と『園太暦』に反感を記している。(林屋辰三郎『内乱のなかの貴族』)

南朝側のネットワーク:交通・流通・狩猟などに携わる「散所の民」(非定住・非農業民)
散所法師……時衆の徒と庭を掘り起こしたり、芸能に携わることでも共通
亡き人をとぶらって漂白するという芸能のスタイル

散所の起源:古代律令制国家の崩壊過程、「賤民制」の解体とそれにともなう新しい荘園領主に対する隷属の基本形態が、「散所」の発生と密接にかかわる。賤民の身分的差別を職業的差別のみならず、地域的差別に転化させることにもなった。「その意味で散所の発生は、部落という特殊地域を、はじめて地域的に表現したものとして、部落史の序章ともいうべき位置を占めている」(林屋辰三郎『古代国家の解体』)……アジール論の陥穽

摂津・河内・泉の「交通路線」を支配した楠氏の「悪党」性は、換言すれば「散所長者的性格」(林屋)で、それが戦功にもかかわらず公家に重視されなかった真の理由。ただし、南朝の大きな地盤が「散所的所領の商業的発展」にあったことは否定できない。荘園に足がかりを失った公家勢力が、新しい商業的活動、交通形態と結びつく。
鎌倉いらいの貨幣経済の浸透:新興階級としての商工業者と荘園経済に支えられた貴族

武家方でも足利義満の後見・細川頼之(管領)が、幕府の基礎を固めるために、土倉・酒屋から銭を徴収、土倉という高利貸資本を支柱として行く基本形態を定めた。南北朝の合一なった翌年(一三九三年)の酒屋土倉に関するこの施策は、公家勢力の基礎となっていた「座」の商業的発展と深く結びあった高利貸業者を現実的に把握するものであり、「公家の経済的地盤を、実質的に無力ならしめたことを物語る」(林屋、『内乱のなかの貴族』)
なお、義満は一方で吉野を根拠地とする南朝の逃走経路(熊野―伊勢)を寸断するめに、熊野にも懐柔の手を伸ばし、熊野水軍の掌握を図っている。「両朝合一直前に、義満の手で奉納された熊野速玉大社の古神宝類はその事情を如実に表している」(今谷明「後南朝―室町幕府の政治と後醍醐流の抵抗」、『歴史読本』第52巻8号)

(当日会場で配布したレジュメに加筆しました)