第三回長池講義 高澤講義レジュメ
2008/11/1
高澤秀次

「歌・物語をめぐる「交通」と「信仰」―東国・東北文学の発生」

(I)歌謡の起源としての歌垣――『万葉集』東歌・防人歌と古代人の交通
佐佐木幸綱『東歌』
5世紀の段階から東国は大和朝廷に服従(最も管理しやすい地盤)
防人を、わざわざ東国で徴発……「東歌」と「防人歌」は地続き
東歌……王朝の「みやび」とは無縁な辺境・東国文化の象徴
7世紀後半以降、東国には、中国、朝鮮からの渡来人が相当数居住
畿内の過剰人口とフロンティアとしての東国・関東(司馬遼太郎)
高麗錦……東国各地に送り込まれた彼らが、本国から持って来た錦、あるいは彼らがその技術をもってして名産の錦を日本で織ったりしたのか。
から衣……東国で歌の素材となり、歌語として都へ波紋を広げる
高麗人たちは、日本風の服を着ることを拒否し、高麗風の「から衣」で通した。
高麗笛……「高麗神社の祭の笛」(坂口安吾)……「高麗」は高麗ではなく高句麗
『続日本紀』に「駿河、甲斐、相模、上総、下総、常陸、下野七国の高麗人千七百九十九人を武蔵国に遷し、始めて高麗郡を置く」とある。七カ国と武蔵国は「東歌」の中心部

「東歌」の民謡性と非民謡性(歌の中央集権化に対する「抵抗」の姿勢)
「防人歌」と家族の歌の多産……体制の壁と家族という砦(cf.秩序を構成する家)
「公」と「私」
歌垣という場……歌の実用性。広く流布してゆく歌と民謡の胎動
原型的な「われ」……あらゆるものを相対化しうる「われ」。共有しうる「われ」
個別的に個の内へ内へとこもってゆく「われ」は共有不可能。能動的、攻撃的に、外へ出てゆく「われ」でなければならない。
民謡的だが民謡そのものではない、特定の恋人へ向けた歌の工夫……歌垣での歌の呼吸を踏まえ、特定の相手に向けて実効性を持つ歌(集団的掛け合いから個の呼びかけへ)

歌垣の起源……農耕予祝儀礼である「国見」と起源を同じくする民間行事(土橋寛)
「生殖」と「生産」との重ね合わせ
「山行き」「山遊び」「花見」などの「春山入り」の行事がその初源
(1)花見ないし国見(2)青葉摘み、草刈り、柴刈り(3)共同飲食(4)歌舞(5)性的解放(6)通婚圏の拡大要請
個的な歌、新作、アドリブ表現は、一般性に即した歌の後にくる。歌垣の歌の重層性

(II)折口信夫・柳田國男をケンブリッジ学派の日本版とする丸谷才一説(「折口学的日本文学史の成立」)
ケンブリッジ・リチュアリスト:文学の宗教起源説に立つ古典学派(文化人類学の元祖)
ritual=儀式、祭祀、お祭り……柳田『遠野物語』の地理と伝説の融合はその影響か
J・G・フレーザー(『金枝篇』The Golden Bough折口の抄訳がある)
折口:『日本文学の発生』(「たヾ今、文学の信仰起源説を最、頑なに把つて居るのは、恐らくは私であらう」)……柳田経由のケンブリッジ・リチュアリストの方法
折口は文学を自然科学的な探求の対象とした「自然主義」的文学観に対抗した
ジェイン・ハリソン:『古代の芸術と祭祀』『ギリシアの神々』……プラトンの「芸術は模倣=ミメーシス」説に反対、模倣ではなく祭祀、お祭りで古代人の情緒を再生、再演

(III)柳田國男:「東北文学の研究」文字以前の文学と文字以外の文学を問題化
物語の流布に携わった座頭(「目がないから本などの入り用は絶対になかった」)
「座頭の交通と割拠」/「盲目の力」

故人がわれわれの夢に見えるごとく、また物語の中に現われて泣き嘆いたことは、浄瑠璃のような近世の産物にも、なお多くの名残を留めている。文芸が宗教の領分から全然独立して後も歌謡はとうてい平静たる叙述のみをもって、喚び戻された古人の生活を客観することを得なかった。情の高潮に達した際には、主人公は必ず歌を詠むことになっている。これを聞く者の感動は必ずしもその詞の巧拙によらず、むしろそのみずから語るの声によって、現前に相対するの思いを抱くからであった。イタコまたはモリコと称する東北の巫女たちは、教えられずして早くよりこの法則あることを知っていた。ゆえに一方には祈祷の辞、もしくは遠ざからんとする霊魂を招く詞を唱えつつ、他の一方には一見これとは関係なき歌物語をもって、神を人界に悠遊せしめ、もしくは人をして神の国を愛せしむるの手段に供しているのである。
これに比べるとボサマすなわち座頭の方は、同じ盲目でも早くから信仰を離れて、物語に専らなる者が多くなったが、それでもみずから一人称を用いて、私が見たこう言ったと、語っていた時代は永かったのであろう。
cf. 『妹の力』(「玉依姫考」)……魂の憑る姫、身に神霊を宿す女=巫女

弁慶が家老挌に引き上げられ、『勧進帳』の主人公にまでなったのは、まったく『義経記』以後の変化であった。
語り始めた時の動機がいろいろだから、物語の中心がつぎつぎに移ったので、『義経記』なども義経を主人公にしたのはかえって前半の方に限られ、吉野山では佐藤忠信、鎌倉では静御前、北国落ちでは武蔵坊……というように、シテ役は一貫してはいなかった。
各部分の作者産地はそれぞれに別であった……「いくつかの物語のかたまり」
奥州系かと考える『義経記』の特色は、ことに「北国下り」以下によく現れている。
その第一は地理の精確といういこと。第二の特色は山伏の詳しいこと。
弁慶は熊野に生まれたというのみで、もと法師であって修験道には携わらなかった。
山伏もしくはこれに接近した者が、筋を運びこの物語を語る必然。奥州辺土の生活に修験道の交渉が多く、誰しも若干の興味を寄せていた時代相を、暗示するもの。
「熊野と羽黒との交通」……伝道の痕跡と『義経記』。その後篇は正しく熊野および熊野人のための宣伝であった。熊野の神人の家系・鈴木氏の東北、奥州平泉における地位

(IV)角川源義:『悲劇文学の発生』『語り物文芸の発生』
悲劇の「説話」(ものがたり)の管理者(語り部)/運搬者(海部の民)
その管理者は勝者ではなく歴史的な敗者……敗者が自身のそして祖先の悲劇を語る
それを聞く者の「笑い」の効用……「笑いの文学」と「悲劇の文学」は踵を接していた。
『義経記』:源義経と、熊野別当の子という形で、熊野側の代弁者となっている弁慶、二人の流離譚。義経よりもワキ役、弁慶の方が余計に活躍する。『平家物語』では、これという為事(しごと)をしていない弁慶が、『義経記』になると俄然活躍するのは、この『義経記』を管理していたものが、熊野信仰を支持した、これら語りの徒であったことがわかる。偽山伏に身をやつして関所を通過。様々な難題を解決しつつ平泉に到着(「北国落」)
熊野の語部による管理:熊野の語りの徒が、信仰の多い東国・奥州の地に出かけて行っては彼らの管理する語り物を語っていた。『義経記』が東北文学として栄え、『曾我物語』が箱根・伊豆山を中心として、関東で固定した深い理由。