長池講義
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〈長池講義〉は、柄谷行人氏を主要講師とする、だれでも聴講できる自由講義です。名称は、八王子市にある長池の畔で開催されることに因んでいます。講義は、定期講師陣とゲスト講師により、国家論を主要なテーマとして、継続的かつ不定期に開催されます。

本サイトは〈長池講義〉の公式サイトであり、開催の都度、講義録やレジュメを掲載し、講義への参加申込受付を行ないます。

第十二回 長池講義 開催情報
日   時 2016年2月27日(土) 15:00〜17:00
会   場
長池公園自然館 東京都八王子市
(長池公園自然館は会場を提供しているだけなので、講演の内容などについて問い合わせをしても答えられません。ルートの確認なども含め、問い合わせしないようにお願いします。)
講   師 柄谷行人
テ ー マ 「モアのユートピアについて」
定   員 15名(先着順)
入 場 料
無料
お申し込み
締め切りました。(2月11日)
なお、申込後参加できなくなった時は速やかにメールにてお知らせください。次点の方に繰り上げ通知を送信します。

第十一回 長池講義 開催情報
日   時 2015年11月16日月曜日 19:00〜21:00
会   場
たんぽぽ舎 スペースたんぽぽ
千代田区三崎町2-6-2ダイナミックビル4F
JR水道橋駅東口より3分、地下鉄神保町駅より8分
講   師 柄谷行人
テ ー マ 日本の憲法──先行形態から見る(憲法1条と9条の謎を、戦後憲法及び明治憲法の形成過程から解き明かす)
定   員 80名(申込多数の場合は抽籤とします)
入 場 料
800円
たんぽぽ舎・長池講義共催
お申し込み
締め切りました。(10月30日)
なお、申込後参加できなくなった時は速やかにメールにてお知らせください。次点の方に繰り上げ通知を送信します。

第十回 長池講義 開催情報
会   場 たんぽぽ舎 スペースたんぽぽ
千代田区三崎町2-6-2ダイナミックビル4F
JR水道橋駅東口より3分、地下鉄神保町駅より8分
>地図
日   時 2013年3月30日土曜日 14:00〜17:00
講   師 柄谷行人
テ ー マ 二つの遊動性
定   員 80名(申込多数の場合は抽籤とします)
入 場 料 500円
お申し込み 締め切りました。(3月17日)
なお、申込後参加できなくなった時は速やかにメールにてお知らせください。次点の方に繰り上げ通知を送信します。

反原発デモへの参加の呼びかけ

長池評議会は、長池講義受講者へ、反原発デモへの参加を呼びかけます。よろしくご参集ください。


私は、現状において、反原発のデモを拡大していくことが最重要であると考えます。したがって、当面、「長池講義」に代えて、抗議デモを行います。デモには「長池評議会」という名で参加します。皆さんの御参加を呼びかけます。
──柄谷行人



『0310 原発ゼロ☆大行動』

来る2013年3月10日、『0310 原発ゼロ☆大行動』に参加します。多数の方々に参加を呼びかけます。

【日  時】
【集  合】



2013年3月10日 日曜日 13:00〜
日比谷公園中幸門

【デモ】


14時出発
デモの後、17時〜19時、議事堂正門前にて国会前集会
http://coalitionagainstnukes.jp/?p=2415



[過去行動]
■『首相官邸前アセンブリー』
日時:2013年1月18日(金)17:30〜
集合場所:財務省上交差点

■『Nuclear Free Now 脱原発世界大行進2』
日時:2012年12月15日(土)14:00〜
集合場所:日比谷公園中幸門

■『首相官邸前アセンブリー』
日時:2012年8月17日(金)17:30〜
集合場所:首相官邸前交差点

■『首相官邸前アセンブリー』
日時:2012年7月9日(金)17:30〜
集合場所:首相官邸前交差点

■『原発やめろ野田やめろデモ!!!!!』
日時:2012年7月1日 日曜日 16:00〜
集合場所:新宿中央公園多目的広場   
コース:新宿公園多目的広場→議事堂南交差点右→ 西新宿交差点左→(甲州街道)→(新宿駅南口)→→ 新宿1交差点南左→→新宿2−12左→(花園通り)→新宿3交差点左→ 新宿2交差点右→(新宿通り)→アルタ前
・18:00〜 アルタ前 原発やめろ野田やめろ広場!!!!!!

■『首相官邸前アセンブリー』
日時:2012年6月29日(金)17:30〜
集合場所:首相官邸前交差点


■『首相官邸前アセンブリー』
日時:2012年6月22日(金)17:30〜
集合場所:首相官邸前交差点

■『首相官邸前アクション&ウォーク』
日時:2012年6月9日(土)17:30〜
集合場所:首相官邸前交差点(丸ノ内線国会議事堂前上
コース:集会後首相官邸一周ウォーク
http://associations.jp/archives/1644

■「原発ゼロへ! 止めよう再稼働 4・11アクション」
日時:2012年4月11日 水曜日 18:00〜
集合場所:日比谷公園中幸門(日比谷公会堂裏)に立っている長池評議会のノボリを目印に集合。
コース:日比谷公園→経産省→首相官邸前→国会請願デモ→外堀通り→関西電力東京支社→東電本社→桜田公園

■「3.11東京大行進」
日時:2012年3月11日 日曜日 14:00〜
集合場所:日比谷公園中幸門(日比谷公会堂裏)に立っている長池評議会のノボリを目印に集合。
コース:国会議事堂近くで流れ解散予定、デモ終了後下記のヒューマンチェーンに参加

■「3・11原発ゼロへ!国会囲もうヒューマンチェーン」
日時:
2012年3月11日 日曜日 16:00〜
コース:16時30分頃  出発(時計回りに議事堂エリアを囲みます) ★17時    「人間の鎖」(1回目) ★17時45分 「人間の鎖」(2回目) ☆18時〜19時  首相官邸前アクション

■「2.11全国一斉さようなら原発1000万人アクション」
日時:2012年2月11日(土曜日)13:00〜16:00
集合場所:東京・代々木公園ケヤキ並木。長池評議会のノボリを目印に集合。
コース:ケヤキ並木→渋谷勤福→宮下公園→明治通り→原宿→千駄ヶ谷小学校→明治公園

「全国から電力会社・経産省を包囲しよう!12・11デモ」
日時:2011年12月11日(日)13:00〜17:00
集合場所:日比谷公園中幸門。長池評議会のノボリを目印に集合。
コース:東電→九州電→四国電→北海道電→中国電→東北電→東電→中部電→関西電から最後は経産省を包囲。

■「たそがれの経産省キャンドル包囲『人間の鎖』アクション」
日時:2011年11月11日(金)18:00〜19:30
集合場所:経済産業省本館正門前、長池評議会のノボリを目印に集合。
アクション:正門前にてアピール後、人間の鎖行動(経済産業省を包囲)

日時:2011年9月19日月曜日(祝日)13:00 明治公園(霞岳広場)Aエリア 13:30 集会スタート
会場内集合場所:Aエリア、Aコース。会場内の長池評議会のノボリを目印に集合(最も日本青年館に近い側)。
コース:外苑前〜表参道〜原宿〜渋谷〜代々木公園まで

■『9.11新宿・原発やめろ!!!! デモ』【反原発広場】でスピーチ
日時:2011年9月11日(日)18:00〜 新宿駅東口アルタ前広場でスピーチ  


日時:2011年7月23日(土)18:30 新宿区新宿中央公園 水の広場  19:00 デモ出発
会場内集合場所:水の広場内演壇左手、長池評議会のノボリを目印に集合。
コース:新宿中央公園 → 新宿方面
http://associations.jp/

日時:2011年6月11日(土)14:00 新宿中央公園多目的運動広場
会場内集合場所:運動広場内演壇左手、長池評議会のノボリを目印に集合。
コース: 新宿中央公園〜新宿駅西口〜大ガード〜歌舞伎町〜明治通り〜新宿駅南口〜新宿駅東口アルタ前
http://associations.jp/topi03.html

日時:2011年5月7日(土)14:00 渋谷区役所前集合 15:00 出発
集合場所:区役所前の時計塔のあたりに「長池評議会」のノボリを目印に集合
コース:渋谷区役所〜原宿〜表参道〜渋谷ハチ公前交差点〜渋谷区役所
http://57nonukes.tumblr.com/

日時:2011年4月24日(日)14:30 芝公園23号地 15:30 出発
集合場所:演壇左手「長池評議会」のノボリを目印に集合
コース:芝公園〜東電本社前〜日比谷公園
http://toudenmaeaction.blogspot.com/2011/04/424.html




第九回 長池講義 槌田劭講義レジュメ
2011/10/15
槌田 劭

原発と「科学」

  • 科学にたいする疑問

     私はもともと京都大学の工学部で金属物理学を専攻する科学者だった。
     しかし「専門家の世界」とか「素人の世界」というように分断された世界は不幸をもたらすとの確信をもった。そこで意識的に「科学者」というスタンスから発言することを辞めた。
     きっかけは、1973年に四国電力の伊方発電所に反対する住民裁判に証人として参加したこと。その裁判を通じて、日本社会の深刻な矛盾を目の当たりにした。同時に科学技術信仰に裏打ちされた工業文明の犯罪性に対する絶望を深めた。それが私が科学者を辞めることになった直接のきっかけ。

  • 部分的真理から共生の社会へ

     1973年に京都で「使い捨て時代を考える会」を、その中で、1975年に協同組合的運営を行う株式会社である「安全農産供給センター」を設立した。以来有機農産物・加工品などを会員内供給している。「使い捨て時代を考える会」の中では、生産者・消費者・流通が立場の違いをこえて、協同する努力を続けている。
     会の中に無農薬のみかん園を営んでいる人がいる。みかんの木の間に、クローバー、大根、にんじんなどを植えていた。無造作に見えるが、知恵と工夫がたくさんあった。その畑を見て、「共生」の社会をつくらなくてはならないと確信した。別のことばでいえば、自然に逆らわず、自然にもっともうまく適合する道の発見にこそ、科学的精神が生かされるべきである。部分だけを問題にする「科学」的手法を克服しなくてはならない。

  • 専門家の「無恥」と「無知」

     3月11日の東北関東大地震災が起こった時に、私は福井県の日本有機農業研究会全国大会に出席していた。真っ先に思ったのは「女川原発は大丈夫だろうか? 福島の原発は大丈夫だろうか?」ということだった。直後に津波で電源が喪失したと聞き、私の頭の中は真っ白になった。もう祈るしかない。なぜならば、このような状況になれば炉心溶融は避けられない。
     3・11の直後に、福島第一原発の原子炉が炉心溶融をしているという見解を私たちの研究会で出した。私がそれを言った時、研究会の中でも「まさか」という声があったが、新聞に出ている小さな記事のいくつかから予想すると必然的にそうなる。
     新聞では「燃料棒のところに水が入っているか、入っていないか」というバカバカしいことを報道していた。このバカバカしさを「専門家」と言われる人が誰も指摘しないということが「専門家」なるものの視野の狭さを露呈させている。彼らの解説能力がゼロなのか、隠蔽しているのか。そのどちらだったにせよ、彼らにこんな恐ろしい技術を扱う資格はない。
     あの発電所の中で何が起こっているのかなど、いまだに誰にも分かっていない。近づきたいと思っても怖くて近づけないのだから、みんな想像するしかない。その後に状況が少しは明らかになってきて、メルトダウン、メルトスルーが判明した。しかし、メルトスルーでこぼれ落ちた燃料が下にどのくらいたまっているのかについても分からない。水位計の数字が正しく働いている保証などどこにもない。圧力容器の中に水がどれくらい入っているかなんて予想をたてても仕方がない。
     いま大事なのは、第二のチェルノブイリ、第二の福島を起こさないようにするにはどうしたらいいのか。また、福島の人々の今後の生活をどのように考えることができるのか、という議論である。専門家と言われる人がどれほどインチキなものかは、事故後の一連の流れを見ても明白。彼らには「想定外」がものすごく多い。こうした「無知」で「無恥」な専門家たちの指示で動いてパニックになれば、分からないことだらけになって当然。私は「科学というのは罪科(つみとが)の学だ」と言っている。このような「科学(とががく)」はものごとをけっして全体で見ようとせず、専門領域の中で部分的真理ばかりを探究する。そして深刻な事故が起こると枝葉末節の議論に終始し、情報を隠蔽する。
     このことを知っただけでも、原発なんて残しておいたら大変なことになるということが分かる。だから、他の難しいことは実はどうでもいい。「そんな人たちに私たちの社会を任していていいのかどうか」ということ。そのことを素直に考えてみるだけで十分。

  • 有機農業運動は原発問題をどうとらえるのか

    ‘本有機農業研究会設立の趣旨
     1971年10月に、研究会は設立した。結成趣意書は、(1)農業の近代化は経済合理主義の見地から促進されてきたが、明るい希望や期待は持てない。(2)人間の健康や民族の存亡の観点が大切。(3)農薬や機械による傷病が農業において頻発。(4)農薬利用で生物死滅、環境破壊。(5)農地の地力低下──「公害とあいまって、遠からず人間生存の危機」と憂国の至情をもち、農法の転換の必要性を訴えた。そして、その転換には困難が伴うので、(6)消費者の食と健康への理解と食生活の健全化への自覚が必要と呼びかけた。
     この方向の上に、経済合理主義の視点からは見出せなかった将来性に対して、明るい希望を見出すために、産消提携の方針が確立した。立場の違い、利害の対立を越えて協力し合う有機農業提携のグループが各地に生まれた。慣行農法が一般化する農村で、無農薬・無化学肥料など不可能と白い眼を向けられる中で、初期の有機農業農家の苦労は大きく、消費者に喜ばれることを励みとした。その努力によって、有機農業技術の有効性が実証された。

    ⇒機農業の思想は共生・循環
     有機農業はいのちの立場ですすめられる。田畑では生物多様性、多種多様ないのちの共生による環境安定が、生産物の流通消費においては産消の協力互助による喜びと感謝で結ばれる共生関係が基本軸となった。そして、太陽の光を受けて、緑の活動による水と炭素の大循環が多様で豊かないのちの世界を育み、生産物を人間の食材として供し、人のいのちを支える。有機農業こそが最良、安定のエネルギー産業である。

    8業にみる反生命の無理と金銭利害
     原発は原子の破壊によって巨大なエネルギーを取り出す技術である。一方、いのちは常温の生物化学エネルギーで生きる。原子の安定性が基本である点で、原子力は生物原理の対極にある。放射線のエネルギーは大きく、細胞を損傷することが被曝の危険となる。
     原子力が巨大なエネルギーであるため、原発建設に巨額の金が動く。危険であるから過疎の農漁村に立地され、巨額の金で農村社会をずたずたにする。原発は有機農業の共生の原理の対極にある悪魔の科学技術である。

    ね機農業運動の質が問われている
     有機農業は共生の思想を基本とするが、実態はどうであったのか。消費者が食の安全を求めるのは当然である。しかし、安全だけを求めるのでよいのだろうか。
     原発事故で大量の放射能が拡散した。多年土を大事にしてきた有機農業農家の苦悩の大きさに心は痛む。福島の農業を壊滅させてよいのか。課題は重い。
     放射能は微量でも有害である。微量汚染での農産物も健康を考えると不安である。しかし、「絶対いや」だけでよいのか。自分の子の健康を願うのは当然であるが、自分の子の幸せだけを考えることで、その子の幸せを保証できるのだろうか。人は共生して生きる。共感し、励ましあうことで幸せな社会が実現する。放射能は危険であるが、放射能だけが問題なのだろうか。
     放射能汚染の現実に、加害者、東電と原子力村への怒りと憤りをもって、脱原発を。そして、福島の農民に心を寄せ、年寄りは福島の農産物を食べて、未来の子や孫を守りたいと思う。


(この講演は「原発と『科学』──「部分的真理」の無恥から共生の世界へ」と題して、『atプラス』10号に掲載されています)


第九回 長池講義 開催情報
会   場 たんぽぽ舎 スペースたんぽぽ
千代田区三崎町2-6-2ダイナミックビル4F
JR水道橋駅東口より3分、地下鉄神保町駅より8分
>地図
日   時 2011年10月15日土曜日 14:00〜17:00
講   師 柄谷行人、槌田劭
テ ー マ 原発とエントロピー
定   員 80名(先着順)
入 場 料 500円
お申し込み 締め切りました。(9月28日)
なお、申込後参加できなくなった時は速やかにメールにてお知らせください。次点の方に繰り上げ通知を送信します。

シンポジウム:震災・原発と新たな社会運動
場  所:紀伊國屋書店新宿本店4階、紀伊國屋ホール
日  時:2011年6月5日日曜日、14:00開演(13:30開場)
講  師:柄谷行人、磯崎新、いとうせいこう、大澤真幸、山口二郎
入 場 料 :1000円(全席指定、税込)、チケット発売中
予約方法:紀伊國屋書店新宿本店5階、キノチケットカウンターで直接チケット購入、または下記宛に電話予約して当日代金とチケットを引換
電話予約先:紀伊國屋ホール 03-3354-0141(受付時間:10:00〜18:30)
主  催:紀伊國屋書店
協  力:『atプラス』(太田出版)、インスクリプト

第八回 長池講義 丸川講義レジュメ
2011/3/12
丸川哲史 


中国において「左翼」とは何か?



〈導入〉

「世界史のなかの中国」という問題(「歴史の終わり論」への返答?)
 cf  ヘーゲル『歴史哲学講義』における「理性」と「発展」、そして中国の位置



〈中国における「左翼」成立の三つのモメント〉

機◆峭駝鰻狙」と「党」(辛亥革命から国民革命まで)

  1.  国民の不在と革命の進行
    cf  『阿Q正伝』(1921年) 国民なき革命
  2. 国民国家形成における「党」の定義
    cf  孫文「国民党規約修正の演説」(1920年) 国家=法治/党=人治


供中国革命の分裂(国民革命の中の1927年クーデター )

  1. 知識人が「革命」にかかわる困難(1926年3.18事件〜1931年柔石事件)
    cf  魯迅「『阿Q正伝』のなりたち」、「死地」(1926年)、「深夜に記す」(1936年)
  2. 毛沢東の「底辺世界」の発見 (労農路線の中国的解釈→国民革命の共産革命への転化)
    cf  毛沢東「中国社会各層の分析」(1926年)、「農村階級を如何に分析するか」(1933年)


掘中共路線の確定(クーデター以降の時代)

  1. 整頓活動(1927年〜1935年)
    cf  毛沢東「党内のあやまった思想について」(1927年)
    「軍事一点ばり」→整頓(教育)と宣伝の重視、国民党との差異化、知識人の必要
  2. 整風運動(1941年〜)
    cf  毛沢東「知識人を大量に吸収せよ」(1939年)→「文芸講話」(1942年→57年反右派)
    知識人への「思想改造」の要請、「文芸講話」のその後の影響



〈人民共和国成立後への影響〉

機▲熟△らの離脱と革命政治の突出

  1. 朝鮮戦争のインパクト、ソ連圏からの離脱
    cf  毛沢東「十大関係論」(1956年)、「廬山における講話」(1959年)
  2. (百家斉放)反右派闘争〜核実験の成功〜文革発動、
    cf  毛沢東「知識人の改造を論ず」(1957年)〜「5・7指示」(1966年)
  3. 文革の対立点(毛沢東VS劉少奇、高級幹部子弟VS非高級幹部子弟)
    cf  造反派「中国はどこへ行くのか?」という問いの生成(1966〜68年)


供◆峅革開放」と冷戦「崩壊」

  1. 78〜79年文革の終わり、及び「改革開放」始動の意味
    cf サミール・アミン、A・ルッソ「改革開放」=「世界的な革命政治の終わり」
    ⇔温鉄軍「第三世界において中国だけが『改革開放』を宣言し、実行した」
  2. 89年〜91年 天安門事件〜ソ連圏崩壊〜湾岸戦争
    cf  F・フクヤマ『歴史の終わり』論→劉暁波の「民主」論
  3. 92年小平南巡講話「門戸開放宣言」から 97年東アジア金融危機へ
    cf 「先富論」解釈、新左派VS自由主義  04年「北京コンセンサス」J・C・ラモ



結論に代えて


中国は今「発展」によって「世界史」に参入して来ている。ヘーゲルの『歴史哲学講義』の立場からして、アイロニーである。この構造は、中国革命がフランス革命的なるものをより規模を大きくして反復し、また宗主国ソ連から独力で独立を果たし、そのソ連が崩壊したことなどとも関連する。柄谷氏『世界史の構造』は交換形態から「世界史」を叙述し直すという画期的内容を含んでいるが、それは「世界史」に参入して来た現代中国との本格的な「対話」の開始を私たちに暗示させる。以下、議論のための論点。

  1. 中国の社会的土壌…小農経済、帝国的統治(清朝からの遺産)、官僚制etc
  2. 中国革命とは何であったか…「主権確立」、「経済建設、「社会的平等」の調和と矛盾
  3. 中国現代史における知識人の転化…知識人の「党(幹部)」「大衆」「国家」との関係。



i 蒋介石による反共クーデター(1927年4月)は、国民革命のプロセスに大きな屈折を与える。このクーデターの前、都市部を中心にして革命機運が激しく醸成されていた(五・三〇運動)。クーデターの後、国共分裂を経て汪精衛により南京政府に統合される。この時、左派(共産党)によって指導された国民革命軍は、南昌への武装蜂起に打って出るも失敗する。これらの背景として、27年という年は、ソ連内部においてスターリン派とトロツキー派の対立が最高潮に達していたことが指摘できる。蒋介石クーデターも南昌蜂起も、この対立に反映されているものとの解釈がある。スターリン派が中国問題において「日和見」であるよう見えないようにするため、過激な方針を下ろした施策であったとされる。



※ この他詳細なメモが配布されました。


第八回 長池講義 丸川講義(資料メモ)
ヘーゲル『歴史哲学講義』第一部東洋世界第一篇中国

 中国とともに歴史が始まります。…すでに見たように、中国が歴史に登場したときのありさまは、いまとかわらない。というのも、客観的な存在とそのものでの主観的な運動との対立が欠けているために、そこではいかなる変化も生じようがなく、わたしたちが歴史と名づけるもののかわりに、永遠に同じものが再現するからです。
  • 記録としての「歴史」と、発展としての「歴史」


魯迅『阿Q正伝』(1920〜21年)


〈勝利の記録〉
 阿Qは「むかしは偉かった」し、見聞は広いし、しかも「働きがいい」から、ほんとは「完全な人間」のはずだが、惜しいかな体質的にやや欠点があった。最大の悩みの種は、頭に数ヶ所、いつからともなく、疥癬のあとが禿げになっていることである。…
 だが彼は、敗北をたちまち勝利に変えることができた。かれは右手をふりあげて、自分の横っつらを力いっぱいつづけざまに殴った。飛び上がるよう痛かった。だが殴ったあとは気が晴れて、殴ったのは自分だが、殴られたのは別の自分のような気がした。

  • 国としての中国それ自身の寓話、あるいは中国人の寓話であろう、と思われる。
  • 当時は、自分が阿Qのモデルではないか、と慌てた人物が多かった。


〈大団円〉
 すると長衣のひとりが、紙と筆を持って阿Qのところへ来て、筆をかれの手に押しつけた。そのときの阿Qの驚きは、文字どおり「魂が消えた」に等しかった。なにしろかれの手が筆と関係を持つのは、これが最初だったから。

  • 名が書けない阿Qは国民たる存在ではないが、しかし革命に参加した。阿Qの処刑は、革命(国民形成)の「流産」を物語る。
  • 手と筆との関係においてそれが職業となる士大夫(知識人)階級という存在が、ここのシーンを起点にして浮かび上がる。
  • 文字(文化)をどう自分のものにするかという課題は中国において大きく、政治に関わることになる。その大きなメルクマールとしての「プロレタリア文化大革命」がある。


孫文「党規約改正の説明(上海の演説)」(1920年)

 中華革命党には幾つか加入の条件があって、当時の旧同盟会の人々は好ましく思わず、多くは反対に回り、ついにそれぞれ我が道を行くことになり、加入しなかった。実際のところ、彼らはよく分かっていなかった。何故なら党と国家は別物なのだということ、それをはっきり弁えていなかった。党が最も重視するのは主義である。つまり、かならずその主義を実行するため、人を重視せざるを得ないのである。元々旧国家の政治は人重視であったが、モダンな新国家は、法重視である。では法はどこから来るのか? われわれ人が造るものだ。だから、党の作用において、人重視とならざるを得ないのだ。党は元より人治で行く、法治ではない。われわれは法治国家を作ろうとしており、それはわれわれの党人の心にかかっている。党が団結し発展するのには二つの作用が必要である。一つは感情の作用であり、もう一つは主義の作用である。法治の作用、その効果は極めて少ない。この道理を理解すれば、なぜまさに私がそういった条件を付け加えたかが分かるだろう。たとえば、私の革命の信条への服従を要求することがあって、みな違うと感じた。しかし私がそういった条件を出したことにも理由があるのだ。

  • ここでの孫文の「団結」の文字は、内戦を通じて、共産党優位の文脈に繋がっていく。つまり、毛沢東の「整頓」活動に、また「整風」活動に最も純化されて反映するのである。
  • 「法治国家が党人の心にかかっている」とは、よくも悪しくも現代中国の政治構造である。


魯迅「『阿Q正伝』の成立ち」(1926年)


 こうして、一週、一週切り抜けていくうちに、さて、阿Qは革命党になるのかという問題にぶちあたった。私の考えでは、中国に革命が起こらなければ阿Qも革命党にならず、革命が起これば革命党になるだろう。わが阿Qの運命はこれしきのものでしかなく、人格もおそらく分裂などしていない。民国元年はすでに過ぎ去って、そのひそみにならうこともかなわないが、今後もし改革があれば、またぞろ、阿Qのような革命党が出現するに違いない。私も人々の言うように、過去のある一時期を書いたにすぎないことを願ってはいるが、私が見たものは、現代の前身などではなく、現代以後、ひょっとしたら、二、三十年先のことかもしれない。

  • ここにおいて「党」という問題が前景化されている。「革命」と「党」の必然的かつ、性急なる結びつきである。ちなみに国民党も「革命」党だった。
  • この翌二七年の中国で起こったことは、まさに中国人(特に知識人)が、どの「党」につくか、という問題を突きつけた。
  • 「阿Qのような革命党」とは何か?
    国民党…権棒術と軍事一点ばり→国民不在
    共産党…コミンテルンの指導に服していたこと、無像無像の人間を受け入れた→国民不在?


魯迅「死地」(1926年)

 しかし、さまざまな論評には、銃や剣よりもさらに心胆を震え上がらせる恐ろしいものがあったと思う。それは数人の論客が、学生たちはもともと自ら死地に足を踏み入れ、死を求めるようなことをすべきではなかった、としている点である。もし、徒手の請願が死を求めることだとするのなら、この国の政府の門前は死地だということになる。…今のところ、私にはまだ中国人の大多数がどういう意見をもっているのかわからない。もしかりに、やはり、このようだとしたら、執政府の前のみならず、全中国が一つとして死地ではないところはなくなるだろう。

  • ここでの学生デモには共産党員の指導が介在していたが、そのことが弾圧の口実ともなった。
  • 『阿Q正伝』との対比で言えば、ここでは近代の「トータルな統治」が例外なく個人(名)を捕捉し死をもたらすことにできる、そのような社会の包摂が始まった時代の到来を意味する。かつて阿Qは名を持たなかった、だから隣の県へ逃げてしまえば、それで良かったのだ。この後、魯迅(知識人たち)はずっと追われる身となる。(北京→アモイ→広東→上海)


魯迅「深夜に記す」(1936年)

 死刑囚に、処刑前、観衆に向かって発言を許したのは、「成功した皇帝や王公」の恩恵であって、また力を持っているという自信の証拠でもあった。それ故、大胆にも死刑囚を放任してしゃべらせ、死に臨む前に自己誇示の陶酔を得させ、人々にも彼の最期をわからせたのである。わたしは、昔は「残酷」とばかり思っていたが、適切な判断ではなかった。そのなかには、わずかながら恩恵を含んでいた。わたしは、友人や、学生の死を思うたびに、もし日時を知らず、場所を知らず、死に方を知らないと、知っているときよりもさらに悲しく、不安になった。それから、あそこを推測した。暗い部屋の中で、幾人かの屠殺者の手にかかって生命を失うのは、衆人の面前で死ぬよりもきっと寂しいであろう。

  • 「寂しい(寂漠)」死というものは、究極の「脱政治」としての密室の死を表示するだろう。
  • この「寂漠」には中国における政治の闇も含まれている。弟子である柔石の死は、租界警察の逮捕から国民党政権の警備総司令部による処刑を経るが、突端となる引き金として、共産党内部の暗闘による「密告」の可能性も高いものと見られている。魯迅はそのことを知っていた可能性が高いのである。その意味も含めて「寂漠」がある。
  • 一方、この時期、共産党は、その指導部を上海から辺境地区(農村)へと移すことになる。魯迅の移動が、東側の都市部の南北の移動であるのに対して、共産党の移動は、中心から周辺になろう。


毛沢東「中国各社会階層の分析」(1926年)


 われわれの敵はだれか。われわれの友はだれか。この問題は革命のいちばん重要な問題である。
  • 革命活動において、はじめて階級が分析される。この時点では、中農を信用していなかった。


毛沢東「農村の階級をいかに分析するか」(1933年)

 中農の多くは土地を所有している。中農の一部は、土地を一部所有するだけで、ほかの一部の土地は借り入れている。中農の一部は、土地を所有せず、土地は全部借り受けている。中農はみな自分でかなりの生産用具をもっている。中農の生産の源泉は、全部が自分の労働によるか、あるいは主として自分の労働による。一般に中農は他人を搾取せず、多くの中農は、わずかながら他人から小作料、金利などによる搾取をうけている。しかし、一般に中農は労働力を売らない。他の一部の中農(富裕中農)は、わずかながら他人を搾取しているが、それは恒常的なものでも、主要なものでもない。

  • 中農という階級の発見、そして地主を生かして自作農にすること。それによって有機的な農村全体の動員が可能となる。毛は、農村(基層社会)から大衆動員を獲得し得る黄金比率を発見した。


毛沢東「知識人を大量に吸収せよ」(1939年)


 三年このかた、わが党とわが軍は知識人を吸収する面で、すでに相当な努力をはらい、数多くの革命的知識人を党に、軍隊に、政府活動に、文化活動と民衆運動に参加させて、統一戦線を発展させてきたが、これは大きな成果である。しかし、軍隊のなかの多くの幹部は、まだ知識人の重要性に目がむかず、知識人をおそれ、はては排斥する気持ちさえもっている。われわれの多くの学校は、おもいきって大衆の青年学生をうけいれるまでになっていない。多くの地方の党組織は、まだ知識人を入党させることをのぞんでいない。このような現象がおこるのは、革命事業における知識人の重要性を理解せず、植民地、半植民地国の知識人と資本主義の知識人とのちがいを理解せず、地主・ブルジョア階級に奉仕する知識人と労農階級に奉仕する知識人とのちがいを理解せず、ブルジョア政党がやっきになってわれわれと知識人を争奪しており、日本帝国主義もさまざまな方法で中国の知識人を買収し、麻痺させていることの重大性を理解していないからであり

  • 根拠地が農村・辺境地区に広がった中国革命(共産党)の進行においては、一瞬で終わる都市攻略ではなく、広大な地域における持続的な宣伝=教育活動が重要になる。そこで、むしろ知識人の活躍する時空が広がっている、という状況認識である。


毛沢東「文芸講話」(1942年)


 わたしは、知識人の着物ならきれいだと考え、他人のものでも着られるのに、労働者、農民の着物はきたないと考えて、着る気になれなかった。革命をやり、労働者、農民や革命戦士たちといっしょになってから、わたしはしだいにかれらを熟知するようになり、かれらもまたしだいにわたしを理解するようになった。まさにそのときから、わたしは、ブルジョア学校で教えられた、あのブルジョア的、小ブルジョア的な感情を根本的にあらためたのである。そのときになって、まだ改造されていない知識人を労働者、農民とくらべてみると、知識人はきれいでなく、もっときれいなのはやはり労働者、農民であり、たとえ、かれの手がまっ黒で、足に牛の糞がついていても、やはりブルジョア階級や小ブルジョア階級の知識人よりきれいだとおもうようになった。

  • 結局これが意図するのは、知識人党員に対して、農村出身幹部の言うことを聞いてくれ、という政治的決断である。
  • ここでの毛沢東の農民観は、まさに魯迅『阿Q正伝』の「大団円」と対位法を形成するように読める。長衣⇔阿Q、都市から来た知識人⇔中農幹部


毛沢東「5・7指示」(1966年)


 世界大戦が発生していないという条件のもとにありさえすれば、軍隊は大きな学校であるべきです。たとえ、第三次世界大戦という条件のもとにあったとしても、このような大きな学校になることができ、戦争をするほかにも、各種の工作をすることができるでしょう。第二次世界大戦の八年間、各抗日根拠地で、我々はそのように、やってきたではありませんか? この大きな学校は、政治を学び、軍事を学び、文化(文字)を学びます。さらに、農業・副農業生産に従事することができます。若干の中小企業を設立して、自己の必要とする若干の製品、および国家と等価交換する製品を生産することができます。また、大衆工作に従事し、工場・農村の社会主義教育、四清運動〔政治、経済、思想、組織の歪みを正す運動〕に従事することができます。

  • 純粋な近代的国防主義者ではないことが分かる。実は、対外戦争を「革命」のための背景の一つとしているようにも読める。
  • 世界史のパリコミューンの「経験」と、現代中国史の根拠地の「経験」を重ねている。自分たちのかつての革命根拠地がパリコミューンのようには潰されなかったという自負が、この発想を生んだと言える。


銭理群「特権階層の思潮」『毛沢東の時代/ポスト毛沢東の時代』(出版予定)


 これは、文革中の造反派思潮における重要な発展であった。最初にブルジョア反動路線を批判する段階で、造反派は主要には毛沢東の呼びかけに応え、行動をもって各級党組織を攻撃した。しかし各級党組織が基本的に麻痺して以降、造反派の中で本当に思想を求めていた一部分は、新たな焦りを抱えるようになった。次に何をすれば? そこで、文革の本質とは何であるのか? 文革は結局どのような目的を達するものなのか? と考え始めた。すなわち、彼らは毛沢東の呼びかけで造反した応答者だけに安んじるのではなく、自分自身の文革の理解を望んだのである。そこで文革の目的と本質を思考することは、実際に文革が直面した「中国問題」を思考することとなった。つまり、「中国とは結局どのような問題、矛盾と危機を有しているのか」また「中国はどこへ行くのか」という問題である。一方、このようなさらに深い位相の問題を考えるということは、造反派が文革の主導権を握ったということを意味する。このように、彼らもまた情熱と衝動によって造反し、そして理性的思考に向かったように、自覚的な造反者となろうとしたのである。

  • 文革は、知識人にこのような問いを孕ませた。そしてこの問いは、受け継がれている。


小平『南巡講話』「経験を総括し、人材を起用しよう」(1992年)

 社会主義の道を歩むのは、ともに豊かになることを逐次実現するためである。ともに豊かになる構想は次のようなものである。つまり、条件を揃えている一部の地区が先に発展し、他の一部の地区の発展がやや遅く、先に発展した地区があとから発展する地区の発展を助けて、最後にはともかく豊かになるということである。もし富めるものがますます富み、貧しいものがますます貧しくなれば、両極分解が生じるだろう。社会主義制度は両極分解をさけるべきであり、またそれが可能である。解決方法の一つは、先に豊かになった地区が利潤と税金を多く納めて貧困地区の発展を支持することである。もちろんそれを急ぎすぎたら、失敗してしまう。いまは発展地区の活力を弱めてはならず、「大釜のメシ(悪平等)」を奨励してもならない。

  • 自由主義の解釈、そして新左派の解釈の違いは、ここでの強調点の違いであり、両者の発想はともに、小平の手の中にあると言えるかもしれない。
  • いずれにせよ、この「発展」をコントロールしているのは中共であり、そのコントロールの権力は「革命」によって打ち立てられたものである。


(南巡講話) 我々は三中総(一九八四年)以来の路線、方針、政策を推し進めるのに際して、強制はせず、運動もやらない。みんなは政策に参加したければ参加する。このようにして、だんだん多くの人民がついてきた。論争をしないというのはわたしの発明だ。論争をしないのは、計画を遂行する時間を少しでも多く得るためである。論争をはじめるとややこしくなり、時間をとられ何もできなくなる。論争しないで大胆に政策を試み、大胆に突き進む。農村の改革はこのようにやったのであり、都市の改革もこのようにやるべきである。
 いま、我々に影響を与えているものには、極右派のものもあれば極左派のものもある。しかし、根の深いのはやはり極左派のものだ。

  • ここにある極左とは、「従来の公有制」を保守する側である。
  • ここには、都市改革の失敗としての第二次天安門事件の記憶が行間にある。


(南巡講話) 世界でマルクス主義に賛成する人が増えるものと私は確信している。それはマルクス主義が科学であるからだ。マルクス主義は史的唯物論を運用して、人類社会の発展の法則を明らかにしたものだ。…一部の国に重大な曲折が現れ、社会主義が弱体化したように見えても、人民は試練に耐え、その中から教訓を汲み取り、社会主義がいっそう健全な方向に発展するように促すだろう。

  • F・フクヤマの「歴史の終わり」論への一つの返答であるのか?


劉暁波「社会を変えて政権を変える」(2006年)


 同時に、ソ連・東欧の共産全体主義陣営が雪崩をうった後、世界的な自由化民主化の大勢は日増しに強くなり、主流国家の人権外交と国際人権組織の圧力により、中共現政権もまた国内統治と対外対応において、「人権の成果」と「民主の成果」を作らねばならなくなった。
 …自由制度がどうして独裁制度に取って代るのか、冷戦の終わりがどうして歴史の終焉と見做されるのか、それは自由制度によって人の尊厳が認知され尊重されるからであり、独裁によっては人の尊厳が承認されず、掃き捨てられるからだ。
 …自由のない独裁社会において、しばらくは政権の独裁性質を変えることが難しい前提にあって、私が理解するところの、下から上へと中国社会を動かす転形期の民間社会の道筋は以下のようなものである。

  • かつてのF・フクヤマの「歴史の終わり」論を踏襲しているのだが、もちろんこのような考え方をしている中国人もかなりいる。
  • 興味深いことに、劉は文革全面否定派であるが、彼の文体や発想には、色濃く文革の影響が見て取れるところもある。


劉暁波など、『〇八憲章』(我々の基本的主張十九条の中の第十四条、十五条)


(十四)財産の保護:私有財産権を確立し保護する。自由で開かれた市場経済制度を行い、創業の自由を保障し、行政による独占を排除する。最高民意機関が責任を有する。国有資産管理委員会を設立し、合法的に秩序立って財産権改革を進め、財産権の帰属と責任者を明確にする。新土地運動を展開し、土地の私有化を推進し、国民とりわけ農民の土地所有権を確実に保障する。

(十五)財税改革:財政民主主義を確立し納税者の権利を保障する。権限と責任の明確な公共財政制度 の枠組みと運営メカニズムを構築し、各級政府の合理的な財政分権体系を構築する。税制の大改革を行い、税率を低減し、税制を簡素化し、税負担を公平化する。公共選択や民意機関の決議を経ずに、行政部門は増税・新規課税を行ってはならない。財産権改革を通じて、多元的市場主体と競争メカニズムを導入し、金融参入の敷居を下げ、民間金融の発展に条件を提供し、金融システムの活力を充分に発揮させる。

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