長池講義


〈長池講義〉は、柄谷行人氏を主要講師とする、だれでも聴講できる自由講義です。名称は、八王子市にある長池の畔で開催されることに因んでいます。講義は、定期講師陣とゲスト講師により、国家論を主要なテーマとして、継続的かつ不定期に開催されます。

本サイトは〈長池講義〉の公式サイトであり、開催の都度、講義録やレジュメを掲載し、講義への参加申込受付を行ないます。
第三回 長池講義 開催情報
 会   場長池公園自然館 東京都八王子市(長池公園自然館は会場を提供しているだけなので、講演の内容などについて問い合わせをしても答えられません。ルートの確認なども含め、問い合わせしないようにお願いします。)
 日   時2008年11月
 講   師柄谷行人、高澤秀次ほか
 テ ー マ国家論
 定   員45名
 入 場 料無料
 お申し込み秋になってから、当サイトでご案内します。
第二回 長池講義 講義録
2008/6/21
柄谷行人

「互酬の力」

 一般に、先史時代に関しては、狩猟採集、漁労、農耕、牧畜、あるいは、石器・青銅器・鉄器といった発展段階から語られる。これは、歴史を、人間と自然の関係という観点から見るものである。これはまちがいではない。事実、人間と人間の関係は、人間と自然の関係を基礎にしているからだ。だが、人間と自然の関係は、人間と人間の関係を通してしか、つまり、一定の社会的な関係を通してしかありえない。前者が後者を規定するだけでなく、後者も前者を規定するのである。

 未開社会における「人間と人間の関係」のあり方は、人間と自然の関係、あるいは生産力という観点からは説明できない。生産力が低いから、こうした社会が形成されるのではない。その逆である。このような「人間と人間の関係」のあり方が、生産力を高める動機を与えないのだ。ゆえに、われわれは「人間と自然の関係」に先立って、「人間と人間の関係」を考察しなければならない。

 その場合、二つの視点が可能である。一つは、マルクスがそうしたように、「生産様式」からみることである。それは、具体的には、誰が生産手段を所有するかという観点である。また、生産手段とは、事実上、土地のことである。そこで、マルクスは、原始社会の特性を共同体所有に見いだし、そこから、私的所有、階級差と対立、さらに、国家の形成という道筋を想定したのである。一方、モースは、原始社会の特性を互酬交換に見いだした。つまり、彼は互酬を、外婚制や首長制、さらに供犠など、社会的・政治的・宗教的とされる次元すべてにおいて貫徹される原理として見いだしたのである。

 一見すると、この二つは対立するか、または、まったく結びつかないようにみえる。しかし、実は深い所でつながっている。私がいう「交換様式」の視点は、この二つを結びつけるものである。

 共同体的所有というと、個人の所有がまったくないかのように誤解される。しかし、たとえば、武器や道具は個人の所有物である。共同体所有となるのは、特に、生産手段としての土地(テリトリー)である。その場合でも、諸個人や所帯は使用権において、そして、それによって生じる財において差がある。しかし、それは階級的な格差にも、国家の形成にもいたらなかった。

 実際、未開社会は、狩猟採集のみの社会から、狩猟採集のほかに漁業、あるいは簡単な農耕・牧畜を行う社会にいたるまで多様である。また、政治的な形態では、単純なバンド社会から、首長制・王制の社会に及んでいる。商品交換や富の不平等、さらに奴隷が存在するところもある。にもかかわらず、それらは国家になることはなく、階級社会になることもない。なぜか。マルクスなら、「共同体的所有」が存在するからだ、と答えるだろう。一方、モースは互酬原理があるからだと答えるだろう。つまり、互酬性が富や権力の集中を妨げるからだ、と。

 しかし、実際は、これらは同じことを意味しており、且つ、相補的である。共同体所有がどのように作用するのかを見るためには、互酬交換を見なければならないし、互酬原理がなぜ作用するかを見るためには、共同体所有を見なければならないのである。

 モースは、互酬がいかにして成立するのか、つまり、なぜ贈与が、贈与された側に返礼を強要するのかを考えようとした。彼はその謎を解く鍵を、未開人(マオリ族)がハウと呼ぶ呪力に求めた。もし返礼しないならば、贈与物に付随するハウが、災禍をもたらす、と彼らは考えている。別の見方でいえば、その物らが元いた所に戻りたがっている、と。だが、このような見方は、モースがもたらした互酬の理論を受け入れた人々の間でも、批判の的となってきた。たとえば、レヴィ=ストロースは、モースの考えは未開人の思考に従うだけで終っている、と批判した。

 しかし、未開人の見方に反して互酬を科学的に説明しようとすると、近代の心理学的見方になってしまいがちである。それは、互酬を、商品交換と類似したものと見ることになる。たとえば、贈与された物がもつハウは、贈与された者がもつ心理的な債務感から説明される。その場合、負債は、贈与された物の経済的価値と似たものになる。だが、これでは商品交換と互酬の違いがわからない。

 モースによれば、互酬を支えるものとして、贈与する義務、受け取る義務、返礼する義務、という三つの義務がある。心理的な債務感という見方では、贈与する義務や受け取る義務を説明できない。一方、気前よく贈与するのは、それが社会的な威信を与えるからだ、という説明がある。だが、「贈与する義務」をそのような理由によって説明することはできない。贈与の義務がある社会では、気前よく贈与することは威信を高めるし、そうしないなら不名誉で威信を落とすことになる。つまり、贈与の義務だけが特にそうなのではない。何であれ、共同体の義務を果たすことは名誉であり、そうしないことは、不名誉である。

 いずれにしても、互酬を強いる力を、近代的な見方で説明することはできない。その意味で、われわれはモースが物に宿る力(ハウ)にこだわったことを重視しなければならない。モーリス・ゴドリエは、ハウの力を、物に対する所有権と使用権から考えた。贈与において、使用権は譲られるが、所有権は譲られない。だから、贈与物のハウが元に戻りたがるということは、贈与されたものが依然として贈与者の所有物であるということを意味するにすぎない。物の所有権が譲渡不可能だというのは、それが共同体的所有だからである。

 しかし、モース自身が、以上のことをわかっていたはずである。彼は「マナ」について論じた初期の呪術論から、呪力が社会的なものであることを強調していたからだ。また、モースに先立って、その叔父デュルケムが、所有権が社会的なものであること、そして、未開社会では、それは宗教的な形態をとってあらわれることを強調していた。デュルケムは所有権の根底に宗教的なタブーを見いだした。タブーとは、ある物を聖なるものとして、神事の領域に属するものとして斥けることである。神聖化されないかぎり、所有は成立しない。そして、神聖なるものは、事物そのものに宿る(『社会学講義』)。

 所有権が人間ではなく物に宿るということは、所有が「共同体的所有」として始まることを意味している。人々は、物が共同体の所有であることを直接に意識することはない。それを、物に精霊が宿っていると意識するのである。ゆえに、贈与された物には、共同体の所有権が精霊として付随するわけである。

 このように共同体的所有という点から見れば、贈与の義務や受け取る義務を合理的に説明することができる。第一に、贈与の義務とは、個人や所帯は、たとえ個人的に使用していても、それが本来共同体に属するものであるからには、共同体のために放出しなければならない、ということである。では、共同体の目的とは何か。狩猟採集の段階ではたえず狩猟範囲をめぐる衝突が生じるため、共同体は他の共同体との間に友好的な関係を築かなければならなかった。そして、贈与はそのために不可欠な手段であった。

 共同体の成員は、共同体の存続のために、個々人の所有を放棄しなければならない。この問題は、外婚制とインセストの禁止の問題から考えてみても明らかである。外婚制は、共同体と共同体の紐帯を作りだすために必要である。インセストが禁止されるのはそのためだ。さらに、同じ理由から、略奪婚が説明できる。レヴィ=ストロースはいう。《略奪婚は、互酬性の法則に矛盾しない。むしろ、互酬性を実行にうつすための可能な合理的方法の一つである。花嫁の誘拐は娘たちを擁する一切の集団が負っている彼女たちを譲渡する義務を劇的に表現している》(『親族の基本構造』)。すなわち、略奪婚が許されるのは、娘を略奪される側が、もともと娘を「贈与する義務」をもっているからだ。

 「贈与を受け取る義務」についていえば、贈与を受け取らないのは、他の共同体を斥けることである。それはたんに人間を斥けるだけでなく、物に宿る神あるいは呪力を斥けることになる。贈与を受け取らないのは、贈与を受け取ってお返しをしないのと同じことだ。この場合、お互いが贈与の効果を信じているのでなければ、贈与の効果はない。しかし、贈与を受け取ることを拒むことで災禍が生じると考えるのは、必ずしも迷信とはいえない。受け取りを拒んだ後に、共同体間の戦争が待ち受けているからだ。

 贈与の互酬を通して、さらに、娘の贈与による親族関係を通して、氏族はより大きな共同体(部族や部族連合体)を形成するようになる。この意味で、贈与の互酬は、共同体が他の共同体との間に、和平と交易の関係を作りだす原理なのである。だが、それによって、他の共同体への忌避や敵対性が一掃されるものではない。それは、たとえ上位の共同体が形成されても、下位の共同体の独立性が消えないということを意味する。このため、他の共同体との関係において、贈与は友好的関係を築くものであると同時に、しばしば競争的なものとなる。つまり、ポトラッチのように、相手を返済できないほどの過度の贈与によって圧伏させるものとなる。もちろん、これは相手を支配するためになされるのではない。共同体の独立性(威信)を守るためになされる。

 この意味で、血讐も互酬的reciprocalであると考えられる。たとえば、共同体の成員が他の共同体の成員によって殺された場合、報復reciprocationがなされる。報復の「義務」は贈与・返礼の「義務」と似たようなものだ。共同体の成員が殺された場合、それは共同体所有の喪失であるから、加害者の共同体に同じ喪失をこうむらせることでしか償われない。血讐にはそれに対する報復がなされ、それがとめどなく続くことになる。ポトラッチにおける贈与の応酬がどちらの共同体も壊滅させてしまうことがあるが、血讐も同様である。それが禁じられるのは、犯罪を裁く上位組織(国家)が成立するときである。逆にいうと、このことは、血讐の存在が国家の形成を妨げることを示している。血讐は上位組織に対する各共同体の独立性を回復するからである。
第二回長池講義 高澤講義レジュメ
 以下の資料(A、B)は、08年5月17・18日に静岡で開催された「有度サロン」での柄谷行人氏との対話のために用意したレジュメを一部改稿したものです。
 「歴史と反復」(『定本 柄谷行人集5』)の60年周期説は、近年120年周期説へと転回、1848年ヨーロッパ革命の1968年における反復構造など、世界資本主義の諸段階に即した対応関係が開示されつつあります。ただし、ここでは氏の60年周期説に立ち返って、日露戦争後の「明治」と「昭和」の反復構造を再整理(資料A)、加えて日本近代史のアポリア「大逆事件」をめぐる「歴史と反復」を、アジア史、世界史の文脈のなかに位置づけてみました(資料B)。

資料A 明治日本と昭和戦後の歴史的反復(60 年周期の再現前)
2008/6/17
高澤秀次

1905:日露戦争終結(ポーツマス条約) 1965:日韓条約調印(韓国進出の契機)
1906:満鉄設立(金融資本大陸進出) 1967:資本自由化 GNP 世界3 位
1907:足尾銅山、暴動罷業 1960年代後半…公害社会問題化(水俣)
1908〜11:第二次桂太郎内閣とアナキズム 1967〜70:第二次佐藤内閣と全共闘運動
1909:自由劇場起こる(新劇) 1969:アングラ演劇運動全盛
1910:
1911:
大逆事件
関税自主権の確立
 1970:
1971:
三島由紀夫自決
変動相場制に移行
大江健三郎「みずから我が涙をぬぐいたまう日」註1
1912:明治アナキズムの敗北と啄木の死 1971:全共闘運動終息と高橋和巳の死
1917:石井・ランシング協定
(中国の領土保全・門戸開放)
 1977:日中平和条約・米中国交正常化

 柄谷(「近代日本の言説空間」):西暦による時代区分と元号による時代区分の「視差」から見える、歴史の反復構造──日本的文脈の意味「昭和三〇年代」まで

※ 最初の反復構造の顕れ:1900(明治33)と1960(昭和35)

 橋川文三『昭和維新試論』(朝日選書)所収「青年層の心理的転位」によると、かつてプリンストン大学のジャンセン教授は、「近代に対する日本人の態度の変遷」(『日本のおける近代化の問題』)で、「明治日本」から区別された「帝国日本」の出現と、その移行を「下関条約とポーツマス条約の間の十年間」、とくに便宜的な目安として明治33 年=1900を画期として行われたと論じた。
 橋川は言及していないが、この「移行」に対応するのは、昭和前期(「帝国日本」の暴走と解体)から、昭和後期(「帝国」の敗北後のポスト「戦後日本」)への決定的画期点となった昭和35 年=1960。日米安保条約の改定はその象徴。

 ジャンセン教授はまた、「近代化に対する日本人の態度の変遷」に関し、1880 年代の月並陳腐な政治小説から、近代作家たちの「内観的夢想」がそれに代わったことを指摘。
前者:矢野竜渓『経国美談』・東海散史『佳人之奇遇』・末広鉄腸『雪中梅』
後者:二葉亭四迷『浮雲』から『蓬莱曲』『内部生命論』に至る北村透谷の劇詩・散文


 なお、「明治日本」から「帝国日本」への過渡期を前景化した花田清輝の戯曲に『爆裂弾記』(1962)。自由民権運動の解体期に起こった「大阪事件」1885 年(明治18)に着想を得た、壮士たちと爆裂弾をめぐる悲喜劇。事件は旧自由党左派・大井憲太郎らが、朝鮮に渡って閔妃ら保守派を一掃しようと画策、事前に検挙。「帝国日本」はこの後、朝鮮侵略を本格化、日清戦争の翌年には実際に王妃閔氏を暗殺。北村透谷はこの謀議から離脱、文学に転じて「内観的夢想」を言語化。朝鮮独立派壊滅と同年の福澤諭吉「脱亜論」。

 また、有島武郎は『或る女』で日清戦争後の精神状況について次のように印す。
「その当時は日露の関係も日米の関係も嵐の前のやうな暗い徴候を現はし出して、国人全体は一種の圧迫を感じ出してゐた。臥薪嘗胆といふやうな合ひ言葉が頻りと言論界には説かれてゐた。然しそれと同時に日清戦争を相当に遠い過去として眺め得るまでに、その戦役の重い負担から気のゆるんだ人々は、漸く調整され始めた経済状態の下で、生活の美装といふ事に傾いてゐた」

cf. 柄谷行人「近代日本の言説空間.1970 年= 昭和四十五年」
「たとえば、キリスト教に向かった北村透谷や、禅に向かった西田幾太郎をみればよい。彼らはそれぞれ政治的な闘いに敗れたあと、急速に整備されるブルジョア国家の体制にたいして、「内面」に立てこもった。つまり、「明治維新」の可能性が閉ざされたあとで、世俗的なもの一切に対立しようとしたのだ。しかも、彼らは世俗的= 自然的なものに敗れざるをえなかった。透谷は自殺し、西田幾太郎は屈辱をしのんで東京帝国大に選科生(聴講生)に入ったのである。K 註2もまたそのようなタイプであったといえる」。他に柄谷「内面の発見」(『日本近代文学の起源』)

※「昭和維新」の可能性が閉ざされた60 年安保後の、「戦後日本」への三島由紀夫(右)・江藤淳(保守)・吉本隆明(左)三者のの反逆的位相とその敗北(戦後思想と戦後文学)三島由紀夫の「戦後」への呪詛:『鏡子の家』から『英霊の声』へ

 ジャンセン:「自己完成の可能性へのオプティミズム」から、懐疑的な「内観的夢想」(introspective reverise)への転位。
 橋川はその劇的な推移の傍証として岩波茂雄の次の言葉を引く(前掲書)。
「乃公(だいこう)出でずんば蒼生を如何せん、といったような慷慨悲憤の時代のあとをうけて、人生とは何ぞや、われは何処より来りて何処へ行く、というようなことを問題とする内観的煩悶の時代」(『岩波茂雄伝』)へ。「現代人の孤独」の起源。

(註1) 1960年(安保闘争)のパロディ(1860年の四国の森での農民一揆を喚起)として、『万延元年のフットボール』(67年)を書いた大江は、この作品で「純粋天皇」とともに、大逆事件に連座して処刑された男の娘を主人公の母親として登場させている。なお、本作品については、『新潮』8月号掲載の小林敏明論文参照。08年8月8日から新宮市で開催される熊野大学夏期特別セミナーの基調講演(「大江健三郎から中上健次へ」)でも言及される予定。

(註2)漱石『こゝろ』で謎の自殺をした副主人公


資料B 大逆事件をめぐる「歴史と反復」

1905(明治38)日露戦争終結・ポーツマス条約
日比谷焼討事件
ロシア血の日曜日(第一革命の原因)
孫文・中国革命同盟会結成(東京)、科挙制度廃止
1906(〃39)南満州鉄道株式会社設立(金融資本の大陸進出)
インド、対英反抗運動スワラジ(自治)スワデシ(国産品愛用)
1908(〃41)神田・錦輝館の赤旗事件(大杉栄ら検挙)
青年トルコ党の革命
1909(〃42)伊藤博文(韓国統監府初代統監)ハルビン駅頭で安重根に暗殺される
イラン国民軍蜂起テヘラン占領
1910(〃43)大逆事件(幸徳秋水ら就縛)
日韓併合、関税自主権の確立
「 白樺」創刊(前年には「スバル」、前々年には「アララギ」)
石川啄木「性急な思想」「時代閉塞の現状」
1911(〃44)徳富健次郎(蘆花)『謀反論』(大逆事件被告処刑に抗議)
維新資料編纂局設置、南北朝正閏論争起こり南朝を正統と定める
西田幾太郎『善の研究』
柳田國男『石神問答』『遠野物語』(農政学から民俗学へ)註1
平塚らいてう「青鞜社」結成
辛亥革命
1912(〃45)明治天皇逝去(乃木希典夫妻殉死、cf. 夏目漱石『こころ』、
鴎外『興津弥五右衛門の遺書』『阿部一族』)、鴎外『かのやうに』
石川啄木「A LETTER FROM PRISON」(幸徳の陳弁書)、
同年啄木死す(27)
美濃部達吉『憲法講話』(政党内閣支持の憲法論)、
天皇主権説の上杉慎吉との間で「天皇機関説」論争起こる
清朝滅亡
タゴール詩集『ギータンシャリ』(翌年ノーベル文学賞)
1913(大正2)桂太郎内閣に反対する憲政擁護運動激化
1915(〃4)中国に21 カ条要求(帝政反対の第三革命、胡適らの文学革命起こる)
1916(〃5)吉野作造、デモクラシーを唱導
1917(〃6)ロシア革命
1918(〃7)第一次世界大戦の終結と「帝国」(独・墺・露・土)の解体
シベリア出兵 米騒動
1919(〃8)普通選挙運動起こる
国家改造運動勃興、北一輝・大川周明「猶存社」結成
朝鮮万歳事件(三・一独立運動)
中国五・四運動(排日運動)
インド、ガンディー国民会議議長による反英不服従運動始まる
第3 インターナショナル(コミンテルン)結成
1920(〃9)日本、国際連盟に正式加入(常任理事国)
経済恐慌起こる
1921(〃10)日・米・英・仏四カ国条約(太平洋問題)、日英同盟廃棄
原敬首相暗殺(東京駅)
1922(〃11)ワシントン軍縮条約・海軍主力艦制限・九カ国極東条約
日本共産党結成(非合法)
全国水平社結成(部落解放運動本格化)
アナ・ボル論争激化(アナキズムVS. ボルシェヴィズム)
ムッソリーニのローマ進軍(伊ファシスト内閣成立)
1923(〃12)関東大震災
大杉栄殺害(甘粕事件)
堺利彦ら逮捕(第一次共産党事件)
虎ノ門事件(無政府主義者・難波大助が摂政宮狙撃、翌年死刑に)
1925(〃14)普通選挙法公布・治安維持法公布
1926(〃15)蒋介石、北伐開始
1927(昭和2)蒋介石クーデター、国共分離。毛沢東江西省井岡山に革命根拠地樹立
日本金融恐慌 第一次山東出兵
ソ連、スターリンの一国社会主義理論採択(トロツキー失脚)
1929(〃4)世界恐慌起こる


 近代以前の思想弾圧.1859 年: 安政の大獄(橋本左内が獄死、吉田松陰は刑死)
 大逆事件の約70 年前には水野忠邦の政治改革で人情本の出版を禁止、作者を罰す。直後の柳亭種彦の死1842 年

 永井荷風は大逆事件の8 年後に「花火」を、それに先立つ1913 年には「戯作者の死」で柳亭種彦の晩年の心境描く。
 「花火」では、エミール・ゾラが、ドレフュス事件(仏国のユダヤ人ドレフュス大尉が、軍の秘密をドイツ軍に漏洩した疑いで国家反逆罪に問われ物議を醸した)の不正を告発し、国外に亡命したことを引き合いに、次のように語る。
 「然しわたしは世の文学者と共に何も言はわなかつた。私は何となく良心の苦痛に堪へられぬやうな気がした。わたしは自ら文学者たる事について甚しき羞恥を感じた。以来わたしは自分の芸術の品位を江戸戯作者のなした程度まで引下げるに如くはないと思案した。
 その頃からわたしは煙草入をさげ浮世絵を集め三味線をひきはじめた。わたしは江戸末代の戯作者や浮世絵師が浦賀へ黒船が来やうが桜田御門で大老が暗殺されやうがそんな事は下民の与り知つた事ではない――否とやかく申すのは却つて畏多い事だと、すまして春本や春画をかいてゐた其の瞬間の胸中をば呆れるよりは寧ろ尊敬しやうと思立つたのである」その六年前(大逆事件の三年後)の作品、「戯作者の死」(後に改作の上、「散柳窓夕榮」に改題)では、この戯作者の心情を自らに引き寄せて次のように述懐させている。
 「禁令の打撃に長閑な美しい戯作の夢を破られなかつた昨日の日と、禁令の打撃に身も心も恐れちゞんだ今日の日との間には、劃然として消す事のできない境界ができた。そして今日といふ暗澹たる此方の境から花やかな昨日といふ彼方の境を打眺めて見ると、わが生涯といふものは今や全く過去に属して已に業に其終局を告げてしまつたものとしか思はれない。何一ツ将来に対して予期する力のなくなつた心の程のいたましさは己が書斎の書棚一ぱいに飾つてある幾多の著作さへ、其等は早何となく自分の著作といふよりは寧既に死んでしまつた或親しい友人――其の生涯の出来事を自分は儘く知り抜いて居る或親しい友人の遺著であるやうな心持がする」

 1910 年「白樺」創刊は明治日本にあったアナキズムの大正ヒューマニズムへの屈折
 幸徳事件の後、日本のアナキズムは堺利彦派と高畠素之派に分裂、後者は国家社会主義を唱えるようになる。『資本論』の完訳者・高畠の直系の弟子が尾崎士郎
 初稿の三分の一が抹殺された尾崎のデビュー作、「獄室の暗影」(ほか九編の「大逆事件もの」がある)講談社版全集(第七巻)テキストには、「(三百四十字検閲により削除)」、「(百二十七字削除)」といった内務省の検閲の痕がある。荷風のテキストは検閲をパス。
『人生劇場』の作者・尾崎は、早稲田大学高等予科(政治科)時代に、石橋湛山のいた東洋経済新報社にアルバイト学生として入社、その後、大逆事件の真相解明の目的で、堺利彦ら幸徳の関係者が多数出入りしていた売文社に転じる。
 尾崎はここで出会い食客となった高畠素之の影響で、一時期、国家社会主義運動にコミット、ロシア革命のあった大正六年には、堺利彦、大杉栄らとともに、警保局のブラックリストに載る。その後、体制翼賛会での活動など戦争協力により公職追放、この間も小説「大逆事件」や「天皇機関説」などの政治小説を書き継ぎ、『人生劇場』全6 巻を完成。
 権藤成卿・橘孝三郎らの戦時期の超国家主義(共同体回帰思想としての農本主義)は、アナキズムの系譜に属する一君万民思想──氏族共同体の祭祀としての天皇(柄谷「歴史と反復」注参照)。橘と白樺派(トルストイ主義)、武者小路実篤と西村伊作との接点

1961:大逆事件の唯一の生き残り坂本清馬らが再審請求(事件後50 年)
1967 年: 最高裁大法廷これを却下
大逆事件の60 年後= 1970 年、1968 年=「明治百年」

 1968 年の日本のアナキズムと反近代主義(近代日本とアジアという問題の回帰)
 高度成長下の「土着」・「情念」・「日本回帰」(柳田ブームと北一輝ブーム)
 啄木の問題提起(「時代閉塞の現状」)の歴史的反復──自然主義=近代文学批判「今や我々の多くはその心内(しんない)において自己分裂のいたましき悲劇に際会しているのである。思想の中心を失っているのである。/ 自己主張的傾向が、数年前我々がその新しき思索的生活を始めた当初からして、一方それと矛盾する科学的、運命論的、自己否定的傾向(純粋自然主義)と結合していた事は事実である」──自己主張/ 自己否定
 自然主義文学起る── 1904 年
 柳田國男と夏目漱石の自然主義文学批判──「明治日本」から「帝国日本」への移行期
 夏目漱石『吾輩は猫である』1905 年──「吾輩は二十世紀の猫だから……」
「主人は泣いたり、笑つたり、嬉しがつたり、悲しがつたり人一倍する代わりに何れも長く続いた事がない。よく云へば執着がなくて、心機がむやみに転ずるのだらうが、之を俗語に翻訳してやさしく云へば奥行のない、薄つ片の、鼻の張丈強いだゞつ子である」「主人は……やがて「天然居子は空間を研究し、論語を読み、焼芋を食ひ、鼻汁を垂らす人である」と言文一致で一気呵成に書き流した、何となくごたごたした文章である」
「大和魂! と新聞屋が云ふ。大和魂! と掏すり摸が云ふ。大和魂が一躍して海を渡つた。英国で大和魂の演説をする。独逸で大和魂の芝居をする」
『坊つちやん』1906 年──第二維新戦争
 江藤淳の私小説批判: 志賀直哉──自己絶対化=自己否定の文学に対する漱石の「他者」
 漱石論における「他者」概念の導入── 50 年代半ばの近代文学批判

 70年前後の「自然主義」=「近代文学」批判── cf. 柄谷「革命史年表」
 柄谷行人(「意識と自然」69 年): 自己同一性の危機の問題(漱石『坑夫』)
 私は私であるか──カント的アンチノミー
「倫理的位相」(対象としての「私」)・「存在論的位相」(対象化しえない「私」)の分裂
「他者」論と独我論の超克──「自然主義」批判、「近代文学」批判

 前近代的「物語」と近代「小説」の相克──共同体(物語)から市民社会(小説)へ
 1970:三島事件──天皇問題に関しての反復強迫(註2)
 1989:昭和の終焉と東西冷戦の終結
 これを起点に90 年代以降漸く、幸徳ほか大逆事件の刑死者らの名誉回復(地方自治体による超党派の顕彰決議)の動き活発となる。仏教諸宗派が相次いで内山愚童、高木顕明、峯尾節堂ら事件関係者の僧籍剥奪処分撤回を公表
 2010:大逆事件(日韓併合)100 周年

(註 1)柄谷行人:「大正期になって、民俗学者柳田國男は皇室の儀礼の祖型を村の儀式に見た。(略)柳田がこの時期、彼の民俗学を「新国学」と呼びはじめたことに注意すべきだろう。彼は最初、日本の中の異質な存在としての「山人」に関心をもっていた。しかし、大正期においてその仮説を放棄した。いいかえれば、一切の外部性を廃棄したのである。(略)その意味で、柳田國男は「大正的な」言説を代表するものである」(「近代日本における歴史と反復」)

(註2)柄谷行人:「三島の考えでは、昭和天皇は、その当時の天皇主義者が予期したように、昭和二十年で死ぬはずであり、それによって「神」となるべきだった。ところが、天皇は「人間宣言」をし国民統合の象徴として生き延びた。三島はこの天皇を軽蔑していた。(略)彼の自殺は、戦後の天皇の殺害と同じことを意味する」(同上)
 なお、柄谷氏は「近代日本の言説空間」(『定本 柄谷行人集5』)で、昭和と明治の反復構造説(60年周期)に基づき、三島由紀夫の自決(昭和45年)を、乃木将軍殉死(明治45年)と対比している。ただ、上記引用文からもこれを大逆事件(1910)から60年後の天皇問題に関する反復強迫、即ち「抑圧されていたものの回帰」(フロイト)と捉えることも十分可能だろう。
第二回 長池講義 開催情報
 会   場長池公園自然館 東京都八王子市(長池公園自然館は会場を提供しているだけなので、講演の内容などについて問い合わせをしても答えられません。ルートの確認なども含め、問い合わせしないようにお願いします。)
長池公園自然館(ネイチャーセンター)への行き方>>
 日   時2008年6月21日 土曜日 午後1時から5時まで
 講   師柄谷行人、高澤秀次ほか
 テ ー マ国家論
 定   員45名 (先着順。定員になり次第締め切らせていただきます)
 入 場 料無料
 お申し込み定員に達しましたので、申し込みをしめきりました。(2008年05月18日)

第一回 長池講義 講義録
2007/11/7
柄谷行人

1 現象と物自体

 カントといえば、現象ともの自体という区別が有名である。われわれは現象しか知りえない、という不可知論が知られている。しかし、現象というのは、カントの場合、特に悪い意味ではない。現象を認識するということは、外からやってくる感覚的なデータを、主観によって処理し構成するということである。具体的にいえば、それは先ず仮説を立てて、実験するということだ。現象が主観によって構成されるというのは、このようなことを意味する。
 別の言い方をすれば、近代科学は、限られた事例(単称命題)から、法則=普遍的命題(全称命題)を引き出すものである。しかし、これはいかにして可能なのか。カントは、一般的な主観による構成にその根拠を求めたようにみえる。が、カール・ポパーは、それでは不十分だと考えた。すべての事例を調べることはできないからだ。
 たとえば、「すべて人間は死ぬ」という全称命題をどのように証明するのか。そこで、ポパーはいう。まず全称命題を提示した上で、それに対する反証がないかぎり、暫定的に真理であるとみなす、と。「すべての人間は死ぬ」という命題は、死なない人がいるという反証を誰かがもってくるまでは、真とみなしてよい。誰かがいつか、そのような反証をもってくるかも知れない。ゆえに、「すべて人間は死ぬ」という全称命題は、暫定的に真とみなされる、仮説にとどまる。
 ポパーは、一般的主観から始めるカントを批判して、このように他者との対話と合意によって科学的認識が成り立つことを強調した。しかし、ポパーがここでいうような他者は、今ここにいる他者であるよりもむしろ、いつか反証してくるかもしれない未来の他者のことだ。そのような他者を前提しないならば、科学認識、つまり法則(全称命題)そのものが成り立たないのである。
 このことは、認識の真理性が他人の同意にもとづくということとは異なる。近年では、他者との同意、間主観性、公共性によって、真理を基礎づけようとする哲学者がいる(ハーバーマスなど)。しかし、そのような他者の同意は真理を保証するものではない(その点で、デカルトの懐疑は正しい)。「未来の他者」が異議を唱え反証してくるかもしれないことを予期するかぎりで、普遍的命題(真理)が存在するのだ。
 ここから見ると、カントのいうことは新鮮にみえる。第一に、科学的認識を「現象」と呼ぶのは、それがついに仮説にとどまる、という意味にほかならない。さらに、カントがいう物自体とは、物(対象)というよりも、むしろ物をもって反証してくるような「他者」のことである、というべきである。そのような他者は、まだ存在しないとしても、いつやってくるかもしれない。それは、われわれの思い通りにならない、説得することもできない未来の他者だ。そのような他者を想定するからこそ、科学認識が成立するのである。
 『実践理性批判』では、他者が物自体として論じられている。つまり、物自体は道徳的(実践的)次元において見出されている。しかし、実は、『純粋理性批判』で科学認識が論じられるときも、物自体としての他者が不可欠な前提となっている。
 
2 現象と仮象

 カントが否定的に見ているのは、仮象(Schein)である。仮象は現象(Erscheinung)と違って、感性的な直観にもとづかない。ただ、考えられただけのものだ。考えられただけのもの(例えば神)が、実際に「存在する」というためには、(感性的)直観を通さなければならない。
 通常、仮象は、理性によって取り除くことができる。古来、哲学は、感覚にもとづくドクサと、理性にもとづくエピステーメーを区別してきた。同様に、カントに先行する啓蒙主義者は、理性にもとづいてさまざまな仮象を批判した。しかし、カントは、彼は、感性だけでなく、理性もまた仮象をもたらすと考えたのである。それが形而上学である。
 感覚によってもたらされる仮象は、理性によって訂正される。しかし、理性によってもたらされる仮象は、理性によっては是正されない。そもそも、それは理性が必要とするものであるから。カントは、理性がどうしてもさけられない仮象を、「超越論的仮象」と呼んだ。自由、神、魂の不死などがそれである。
 例:超越論的仮象としての自己。デカルトの「スム:我在り」は、「同一の自己がある」ということを意味する。それに対して、ヒュームは、同一の自己などは仮象である、という。たとえば、前日の自分と今の自分とは違う。自己同一性などない。しかし、同一の自己という幻想がなくなると、実際に、深刻な病気(統合失調症)になる。自分という仮象は、生きていくために不可欠なのだ。さらに、社会的に、同一の自己がないと、行為に対して責任をとることができないということになる。ゆえに、同一の自己は仮象であっても、取りのぞけないような仮象、つまり、超越論的仮象である。
 カントもまた啓蒙主義者である。しかし、彼は啓蒙主義そのものを批判する啓蒙主義者、いわば、永続的啓蒙主義者であった。

3 統整的理念(理性の統整的使用)と構成的理念(理性の構成的使用)

 カントは、ある種の超越論的仮象は、実践的に有益であり、不可欠だと考えた。その場合、彼はそのような仮象を「理念」と呼んだ。ゆえに、理念とは、そもそも、仮象である。
 例:詰め碁や詰め将棋では、実戦でならば解けないような問題が解ける。それは詰むということがわかっているからだ。サイバネティックスの創始者ウィーナーは、自ら参加したマンハッタン・プロジェクトで原爆を作ったあと、厳重な情報管理をしたという。それは原爆の作り方を秘密にすることではない。原爆を作ったということを秘密にすることだ。作れるということがわかれば、ドイツでも日本でもすぐにできてしまうからだ。いわば、原爆の作り方が構成的理念だとしたら、原爆を必ず作れるという考えが統整的理念である。
 ある理想やデザインによって社会を強引に構成するような場合、それは理性の構成的使用であり、そのような理念は構成的理念である。しかし、現在の社会(資本=ネーション=国家)を超えてあるものを想定することは、理性の統整的使用であり、そのような理念は統整的理念である。仮象であるにもかかわらず、有益且つ不可欠なのは、統整的理念である。
 
4 事前/事後の差異

 理性の統整的使用と構成的使用の差異は、事前と事後という立場の差異として考えることができる。出来事を、事後の立場からふりかえって見るとき、理性の構成的使用が可能である(規定的判断力)。事前の立場から見ると、理性の統整的使用が必要となる(反省的判断力)。
 一般に、カントは、事前の立場に立っている。未知の未来に対して、何らかの目的論を想定する必要がある。理性の統整的使用とは、目的がある「かのように」想定することである。それに対して、ヘーゲルは事後の立場に立つ。つまり、すべてを結果から見る。「本質は結果においてあらわれる」。
 ヘーゲルに対する批判者として、キルケゴールがいる。彼の考えでは、いまここにイエスがいるとしよう。このみすぼらしい男をキリスト(メシア)だと信じるのは、「命がけの飛躍」である。ところが、ヘーゲルは、イエスがキリストであるということは、現にキリスト教が世界的に広まっているという事実によって証明されるという。
 キルケゴールは、「思弁は後ろ向きであり、倫理は前向きである」といった。その意味で、彼はヘーゲルからカントに戻っている。実は、マルクスも同様である。彼もヘーゲルからカントに向かったのだ。未来に向かって現状を乗り越える、つまり事前の立場に立つ者は、理性の統整的使用を必要とする。マルクスは歴史に関して構成的理念を一切斥けた。つまり、未来社会についての設計を語らなかった。彼にとって、コミュニズムは統整的理念である。そして、彼はそれを生涯保持した。
 しかるに、コミュニズムを歴史の必然として、社会を理性的に構成しようとしたマルクス主義者は、ヘーゲルの事後的な立場を、事前の立場に持ち込んだことになる。そのようにして、統整的理念と構成的理念が混同される。「理性の構成的使用」は暴力的強制となる。その結果、理念一般が、あるいは理性一般が否定されるようになった。

5 統整的理念
 
 ポスモダニストは、歴史の理念は仮象だという。しかし、カントによれば、理念はそもそも仮象なのだから、あらためていうべきことではない。理念を否定する人々は、かつて統整的理念と構成的理念を混同した人たちである。(アツモノにこりてナマスを吹く)
 理念を嘲笑する人たちは、それが超越論的仮象だということ、それがなければ人が生きていけないということを知らない。
 第一に、先進国で、社会主義は幻想だ、大きな物語にすぎないといってすんだとしても、世界資本主義がもたらす悲惨な現実に生きている人たちにとっては、それではすまない。現実に一九八〇年以後、世界資本主義の中心部でポストモダンな知識人が理念を嘲笑している間に、周辺部や底辺部では、宗教的原理主義が広がった。少なくとも、そこには、資本主義と国家を超えようとする志向と実践が存在するからだ。
 第二に、先進国では、理念を否定するどころか、現状において、理念が実現されたと考えるようになった。自由民主主義という理念である。世界史はまさにそのような理念の実現である。それ以上の理念は空虚であり、不毛である。このようにいう人たち(フランシス・フクヤマなど)がヘーゲルを引用したのは、こじつけではない。実際、ヘーゲル自身が、カントの理念(世界共和国)を嫌い、それを否定しようとしたからである。
 ヘーゲルにとって、世界史はナポレオン、つまり、資本=ネーション=国家の確立において実質的に終っている。それ以上の課題はない。ゆえに、ヘーゲルにとって、理念は現実的で、現実は理念的である。それ以上のことを望むカントは、空疎な理想主義だということになる。
 しかし、資本=ネーション=国家を越える統整的理念をもたないならば、たんにそのような構造の犠牲になるだけである。そして、資本=ネーション=国家が交換様式の問題であるならば、それを越えることも交換様式の問題である。世界共和国という理念は、たんに理想主義なのではなく、現実的な基盤(交換様式)に根ざしている。
第一回長池講義 高澤講義レジュメ
「国家論」に関するノート
2007/11/7
高澤秀次

1 国家論の系譜

■戦後日本の国家論の系譜

・天皇制国家論
 神山茂夫『天皇制に関する理論的諸問題』
 藤田省三『天皇制国家の支配原理』
・古代国家論
 石母田正『日本の古代国家』
 林屋辰三郎『古代国家の解体』
 林屋は律令体制国家下の日本貴族の官僚的性格にはじめてメスを入れた。日本における「公」の意識は、一貫してこの体制によって権威づけられた機構を指すものに終始。将軍も律令的官職に憧憬を持ち続けた。明治政府も太政官機構の内部改造によって近代化図る。
・上部構造論としての国家論
 三浦つとむの「国家意志論」(「個人意思・階級意思・国家意思の区別と関連―丸山政治学の論理的性格」)――国家の共同意志を問題化
国家は階級の共同利害とそれを超えたところのものを国家意志として観念的に対象化する
 階級としての立場からの共同利害を、超階級的であるかのように擬装し、特殊利害が幻想的な「一般」利害として国家意志に反映。

 cf.マルクス『ドイツ・イデオロギー』:
 「分業」と同時に諸個人の特殊な利害と、共同的利害との矛盾が顕わになる。「しかも、この共同的利害というのは、何かしら単に表象の内に「普遍的なもの」としてあるのではなく、まさしく、特殊的利害と共同的利害とのこの矛盾から、共同的利害は国家として、現実の個別的な利害ならびに全体的利害から切り離された自立的な姿をとる(そして同時に幻想的な共同性として)」(廣松渉編訳)
 近代日本にあって、この超階級的「擬装」は、そのまま「天皇制国家」として表象される
 この「国家意志論」を継承発展させたのが滝村隆一(『マルクス主義国家論』他)
〈狭義の国家〉=〈国家権力〉――〈共同体―内―国家〉
〈広義の国家〉=〈国家〉――――〈共同体―即―国家〉
 歴史的位相を異にする〈原始的〉社会以来の共同体が、他共同体〈種族〉との直接的関係〈交通関係〉をもつに至ったとき、それはすべて〈国家〉として構成される(あるいはされざるをえない)という事実を国家論の根本発想とする〈共同体―即―国家〉説


2 「国家」と「社会」との関係について

■国家と社会

 〈国家〉は〈市民社会〉という・現実的生活諸関係の総体としての実在的土台の、〈政治制度〉的表現=〈観念的・イデオロギー的〉外皮にすぎない……饅頭の中身であるアンコと皮の関係
 国家は内外危難に対する社会総体の政治組織。いわば社会というアンコを包んだ饅頭の皮が国家。近代的・資本主義的(帝国主義)国家の対外国家理念は、一般に支配階級の経済的「共同利害」を体現した、対外経済政策の上品なオブラート程度で、それ以上の擬装された超階級的な「共同利害」、超越的な国家意志は希薄。cf.超国家主義の問題
 戦前・戦中の超国家思想は前近代的天皇制と近代資本主義との二重構造の解消を根本モチーフとしていた。

■超・脱国家志向(=共同体回帰)の系譜

 橘孝三郎の共同体運動(「愛郷塾」)
 権藤成卿の『自治民範』、『自治民政理』と農本主義
権藤(1868〜1937):共同体回帰の根底に「社稷」理念を置く
 「社」――土地の神
 「稷」――五穀の神
 天皇制国家の確立にともない、国家を超えるものとしての「社稷」が衰退
 民衆の自治を否定する国家の統治に反対・権力からの自立……アナキズムの要素
 近代化によって喪失したものの回復……天皇制を正当化(同時に近代・資本主義批判)

■国家上部構造論の根拠としての『ドイツ・イデオロギー』

 廣松渉(『唯物史観と国家論』):『ドイツ・イデオロギー』に盛られた国家論の要諦
 (1)幻想的な共同体としての国家
 (2)市民社会の総括(「一時代の市民社会全体が集約されている形態」)としての国家
 (3)支配階級に属する諸個人の共同体としての国家
 (4)支配階級の支配機関としての国家
「市民社会は国家と国民を超えている」(『ド・イデ』)
 所有関係がすでに古代と中世の共同体Gemeinwesenから抜けだし終え、生産諸力の一定の発展段階の内部での諸個人の物質的交通を包括し、あらゆる段階の商業と工業の生活全体を包括している限りにおいて。

■自由人の連合と国家の死滅:

市民社会での私人と政治的国家内の公民の自己分裂の止揚
・マルクス:
 「プロレタリアートは、プロレタリアートとしての自分自身を揚棄し、それによってあらゆる階級区別と階級対立を揚棄し、それによって国家としての国家をも揚棄する。……(略)……国家が現実に全社会の代表として登場する最初の行為―社会の名においておこなわれる生産手段の掌握―は、同時に、国家が国家としておこなう最後の自主的行為である。社会的諸関係にたいする国家権力の干渉は、一つの分野から他の分野へと順次余計なものとなり、ついでおのずからねむりこんでしまう。……(略)……国家は「廃止」されるのではない。それは死滅するのである」(『反デューリング論』)
・エンゲルス:
 「国家はそれ故に永劫の昔からあるのではない。国家がなくてもすんだ。国家と国家権力を少しも知らなかった社会があった。社会の階級への分裂と必然的に結合していた経済発展の一定の段階の上に、この分裂によって国家が必然的になった。我々はいま駆け足で、これらの階級の存在が必然性であることをやめただけでなく、生産の積極的な障害になる生産の発展段階に近づく。それらの階級は、それらがかつて発生したのと同様に不可避的になくなるであろう。それらの階級とともに不可避的に国家はなくなる。生産を生産者の自由で平等な連合の基礎の上に組織しなおす社会は、全国家機構を、それがそのとき所属するであろう処に、古代博物館に、紡車や青銅の斧の隣りに、移す」(『家族、私有財産と国家の起源』)
・レーニン:
 「プロレタリア国家のブルジョア国家との交替は、暴力革命なしには不可能である。プロレタリア国家の揚棄、すなわちあらゆる国家の揚棄は、「死滅」の道による以外には不可能である」(『国家と革命』)

 その前提と「所有」の概念:「分業の廃止は共同社会Gemeinschaftなしには不可能である。共同社会のうちにのみ、各個人にとって、自己の素質を全面的に発達させる手段が存在する。またそれゆえ、共同社会のうちでこそ人格的自由も可能となる」(『ド・イデ』)cf.個体的所有の再建

・平田清明『市民社会と社会主義』:コミュニズム=自由人の連合体(生産と交通の再結合)
 共同所有にもとづく個体的所有(の「再建」)=近代以前の共同(体)所有の否定の否定
 無階級社会:生産と所有との結合
 市民社会:生産と交通の分離

・市民社会を超えるという発想の根はヘーゲル:市民社会を国家に止揚するという発想
マルクス:その転倒として、市民社会・ブルジョア社会を社会主義社会へ止揚する
唯物史観:世界史の発展史観の唯物論的転倒。個別歴史的にではなく、近代市民社会レベルからの原理的考察(近代以前の諸形態を素材的前提として組み込む)――最終的には経済理論的な『資本論』の方へ。
ヘーゲル:宗教において個人は己の存在の普遍性、共同性を自覚する。
ベネディクト・アンダーソン:宗教に代わる仮象としてのネーション―ナショナリズム
柄谷行人:
 啓蒙主義によって解体された宗教的世界観とは、「共同体の世界観」。世界宗教は個人の魂を救済するだろうが、共同体のこうした永続性は回復されない。それを想像的に回復するのがネーション=超越論的仮象(「死とナショナリズム」)cf,「世界共和国へ」
「新しい哲学」(1967年、『思想はいかに可能か』所収):
 戦後日本=国家と市民社会が極度に分離された〈社会的状況〉
 国家と市民社会の分離が、「超国家主義」の解体としてのポジティヴな意味を担っている間は、それが一つの「喪失」としてとらえられることは、ありえなかった。
 資本主義的合理化と民主主義国家の実現……人間の自己分裂の完成というパラドックス
 その分裂の表白者としての三島由紀夫と江藤淳……三島は国家の揚棄ではなく天皇を神とする宗教化による市民社会の揚棄。江藤は国家と市民社会の分離を「喪失」として把握

■吉本隆明の〈アジア〉的段階と「国家」についての考察
・アジア的専制
 (1)専制君主的共同体にたいして人民は物神を貢納したり、生産物の貢納や賦役、軍役の強制に従うことで土地を使用する代償とする。
 (2)専制共同体は、食糧生産のための灌漑、河川の整備、軍事的保護。都市の構築を請け負う。
 (3)全自然(動物、植物、無機物)は習俗として宗教的な尊崇の対象となる。
『共同幻想論』所収「全著作集のための序」で東洋学者ウィットフォーゲルを批判
「アジア的(段階)」のカテゴリーからはずれた日本における〈観念のアジア〉的専制を問題化。共同幻想のアジア的特性……天皇制国家の起源(神話)への遡行

・柄谷行人:
 アジア的な国家の場合、専制的な皇帝と官僚機構・常備軍の存在によって、支配者の共同体は消えるが、被支配者の共同体はそのまま残る。支配者(国家)は、共同体全体を上から支配するが、賦役貢納をのぞけば、国家が共同体に干渉することはなかった。
(『世界共和国へ』)
 「国家はあくまで、一つの共同体が他の共同体を征服し支配するときに生じる。その場合、支配共同体と被支配共同体の両面から、事態を見なければならない。専制国家、つまり専制君主が支配するような国家は、支配者共同体の内部で、共同体の互酬原理が失われるときに形成されるのである。その結果、絶対的な王権の下に官僚的なハイアラーキーが形成される。官僚は王に従属する。とはいえ、全体として、彼らは支配階級(身分)なのである。/こうして、一方で、支配者共同体が絶対的な王権と官僚体制に変容されるとともに、他方で、被支配共同体は農業共同体として再編される。これこそが、アジア的な社会構成体の特徴である」(「『世界共和国へ』に関するノート(5)専制国家」、『at』9号)。
 永続的なアジア的共同体なるものは虚構にすぎず、永続的なのは、官僚制という国家機構。

・征服の三つの形態
 (1)他の共同体を解体し、奴隷化する。
 (2)他の共同体に賦役貢納をさせるが、独立したままにしておく。宗主国と朝貢国の関係。必ずしも征服を伴わず、むしろ征服の危険を避けるために、共同体や国家の側から朝貢関係を積極的に申し込む場合がある。
 (3)多数の共同体を国家の内部に組み込んでしまうもの。

・A・Gフランク『リオリエント―アジア時代のグローバル・エコノミー』
 ウォーラーステインの「近代世界システム論」を西洋中心主義と批判。19世紀のはじめまで、世界経済がヨーロッパを中心にしていたなどということは、まったく想像の余地もないことで、資本主義(的発展)がヨーロッパないしは西洋によってもたらされたなどということも、さらに全くなかった。「ヨーロッパは、まずアジアという列車の席をひとつ買い、後には、列車全体を買い占めた」のであり、マルクスの「資本主義理論」の全体は、「アジア的生産様式」という仮定のお伽噺の上に立つヨーロッパ中心主義にしか支えられていないことによって」、無効とされる。
 常備軍、情報通信技術を含む官僚的支配体制を基盤としたアジア的「文明」(柄谷)

* 以上は、当日会場で配布したプリントの内容と多少異同があります。



3 柄谷行人の長池講義での追加コメント

■農本主義とアナキズムとの関係について

(1)日本の農本主義:
・石川三四郎以下、日本のアナキストは戦争中、権藤成卿を担いで転向した。戦後になっても天皇の元でのアナキズムなどと言い、転向意識はなかった。橘孝三郎はちょっと違っていて、元々はロシアの農本主義、トルストイ主義者。帰農し茨木で愛郷塾始める。政治運動に入り、5・15の被告になるなど右翼に見られるが、本来は白樺派。武者小路実篤(「新しい村」)など白樺派はみなこの系譜のアナキスト(高澤註:そこに内村鑑三経由のキリスト教がミックスされる)。
・農本主義者は交換様式C(商品交換)を認めないから、B(略奪と再配分)に行くかA(互酬制)に戻るしかない。D(アソシエーション)に行けない。資本主義社会、個人的契約社会を認め、そこを経ないとDには行かない。
・「社稷」は儒教と両立……アナキズムである。孔子は社稷であって反国家になる。
・日本:歴史的には儒教の中に革命性を見出してきた。そこに含まれているアナキズム、反国家的なもの――A(互酬制)が働いてくる。(高澤註:共同体への回帰と反近代思想)

(2)シュティルナーのアナキズム:
・フェライン(Verein連合)―アソシエーションは、唯一者(エゴイスト)だけに可能で、そうでなければ連帯できないとする。共同体を拒否しないとアソシエーションはできない。シュティルナーはその点でプルードンを批判した(註)。ただしプルードンは、ネーションの原理になるフラタルニテ(fraternite友愛)を拒否し、原理的にはそれを避けて経済システムをもってきた。シュティルナーは別の観点から、アソシエーションの前提となる唯一者(エゴイスト)をもってきた。

高澤註:宗教なく生きる定めにある人間にとって、なお道義の掟は永遠・絶対であるとしたプルードン(「秩序の創造」)に対し、シュティルナーは「古い宗教の抜け殻をやっとかなぐり捨てたその途端、またしても一つの宗教的殻をまとうことになる」と批判。人は意識的にエゴイストたることがなければ、真の「精神の自由」を認めることができないとして、「社会的義務」、「社会」という新たな「主人」をも否定(『唯一者とその所有』)。さらに、エゴイストを不可能ならしめるのが、「社会的自由主義」であるとした。なお、『ドイツ・イデオロギー』でマルクスが、シュティルナーを批判しているのは周知。共産主義社会の集団全体の「ルンペン」化を呼びかけたのがシュティルナーだったからだ。すべての者は、ルンペンであれ。所有は非個人的となり、社会に属するものであれというのが、シュティルナー流の究極のアナキズム。「プロレタリアートが、富と貧困のへだてを除かれるという、彼らの意図する「社会」を現実に打ち立てたあかつきには、プロレタリアはルンペンとなるのだ、けだし、そのとき彼は、ルンペンであることを良しとし、「ルンペン」という言葉が尊称に祭りあげられることになるやもしれぬからだ、ちょうど、革命が「市民」(ビユルガー)という言葉を尊称に押し上げたのと同様に。ルンペンは彼の理想であり、われわれすべてはルンペンとなるべし、というわけだ」(『唯一者とその所有(上)』、片岡啓治訳)
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第一回 開催要項
日時 2007年11月10日土曜日 13:30〜17:00
場所 八王子市長池公園内 長池自然館教室
講師 柄谷行人、いとうせいこう、高澤秀次

第1回長池講義受講者数 48人
長池講義開催の経緯
 2007年11月10日土曜日、八王子市別所の長池公園内にある長池自然館で、柄谷行人氏の公開講座(無料)が開講されるに至った経緯を、当日のゲストの一人いとうせいこう氏が冒頭で語った内容を収録する(補足部分を含め文責・高澤秀次)。

 2007年春、柄谷氏が兵庫県から八王子市に転居されたのを機に、新宮市の熊野大学(1990年に中上健次が設立)の夏期セミナー常連講師陣が新居に集まった。その席で、中上の17回忌に当たる08年のセミナー参加を最後にしたいと表明された柄谷氏に、熊野大学とは別に、東京で公開講座を開けないかとの提案があった。柄谷氏は居合わせたメンバーを自宅近くの長池公園内の自然館に案内、折を見てここで何かをやろうと即決した。
 当地は浄瑠璃姫伝説ゆかりの地、浄瑠璃姫が身を投げた池がこの長池とされる。
 日本の古典芸能にとって一番大事なヒロインであり、浄瑠璃の起源に結びついたその姫にまつわる伝承……昔、子どもの出来ない夫婦(矢作の長者兼高夫婦)があった。薬師信仰と結びついた瑠璃光如来(薬師如来)に祈り、やがて素晴らしく美しい娘(浄瑠璃姫)を授かる。成長した姫は牛若丸(義経)と恋に落ちる。義経は奥羽へ……再会を約束して果たせない浄瑠璃姫は身を投げて死ぬ。その悲恋を中世の琵琶法師などが歌った。それが浄瑠璃(節)となり、これに操り人形がついて人形浄瑠璃に。物語は三河から江戸に来たって清元、常磐津、新内などに形を変える。中世の語り物文芸の奥底に浄瑠璃姫がいる。ただし、ここ八王子別所の浄瑠璃姫伝説は16世紀のもの。三河の豪族・岡崎四郎が薬師如来像を城に持ち帰り、授かったのが浄瑠璃姫。この姫が武蔵国の小山田太郎高家の側室になる。姫は父から薬師如来像を譲り受け持参。高家は新田義貞の鎌倉攻めに従い戦死。浄瑠璃姫は主人の後を追い、薬師如来像を背負って十三人の侍女とともにこの長池に身を投げたという伝承。
 なお、柄谷行人の旧居近くには、近松門左衛門終焉の地の伝承があり、浄瑠璃姫伝説のあるこの場所で公開講座を開講することに因縁を覚えたと言う。
長池公園自然館(ネイチャーセンター)への行き方
南大沢駅前のバス乗り場2番から、京王堀之内行きに乗り、「見附橋」で降りてください。バス乗り場は、改札を出て左です。時刻表などは以下を参考にしてください。
◆南大沢駅 バス乗り場案内図 ◆「京王堀之内駅行き」時刻表
MAP
「見附橋」でバスを降りて左に歩いてすぐのところに交差点があるので、見附橋と長池公園のほうに向かって信号を渡ってください。渡ったところで右折し、長池公園を左にしてバス通り沿いを100メートルほど歩くと、レンガづくりの小さな橋(長池橋)が見えます。橋のたもとの階段を上がると、正面よりやや左にネイチャーセンターがあります。ちなみに、南大沢行きのバスは、この橋のたもとから出ていますので、帰りのバスにはここから乗ってください。

徒歩では、南大沢駅から長池公園まで20分弱です。分かりやすい道ではないので、迷う可能性が高いかと思います。歩く場合は、バス通り沿いではなく、遊歩道から来ると断然近道です。上の画像の道順を参考にしてください。インターネットの地図(グーグルやヤフーなど)で最短距離を検索すると、かなり遠回りの道が示されることが多いので、ご注意ください。

長池公園は広く自然が豊かで、晴れていれば散策が楽しめるところですので、興味のある方は見学なさってみてください。